SSブログ

分かるということ [親鸞最晩年の和讃を読む(その69)]

(7)分かるということ

 まず「わたし」がいて、「わたし」がさまざまにはからってものごとを采配している、というのがごく普通の見たてです(はからいとは「計らい」で、要するに計算です。「わたし」は日々いろいろと計算して生きているということです)。それに対して、「わたし」がはからっているようでありながら、「わたし」というのは他の無数の人やものとの繋がり(縁)を離れてあるのではありませんから、実はそうした繋がりのなかではからわれている、というのが縁起の見たてです。そしてそれは取りも直さず本願他力の教えです。かくして縁起イコール本願他力となります。
 罪福というのは手に取るように分かるが、仏智ということ、すなわち縁起あるいは本願他力ということがよく分からないということでした。罪福がよく分かるのは、われらは因果の図式で世界を見ていますから、念仏という因が往生という果を招くということは(それが正しいかはともかく)、その構図はもう当たり前のことです。では縁起あるいは本願他力が分からないのはなぜか。これもしかしおなじ理由で当たり前です。何かが「分かる」といいますのは、われらが世界に因果の図式を持ち込んで秩序立てているということに他なりませんから、そういう操作をする前の世界(縁起の世界、本願他力の世界)が「分かる」わけがありません。「分かる」とは「分ける」ことですから、「分ける」前の混沌の世界が「分かる」はずがないのです。
 ところが「分かる」はずがないことを「分かろう」とする、ここから不幸なすれ違いがはじまるのですが、注意したいのは、「分かろう」とするということは、少なくともそこに何かがあることはすでに気づいているということです。その気づきがなければ、得体のしれないものを何とかしてものにしたいなどという気がおこるはずがありません。ぼくの親鸞講座を聞いてくださる方で、「本願は気づくものだといわれますが、わたしにはその気づきがあるようには思えません」と言われることがしばしばあるのですが、そういうときのぼくの答えはこうです。「いえ、あなたにはもう気づきがあると思いますよ。そうでなければわざわざこんな講座に足を運ぼうという気になるはずがありませんから」。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

縁起と本願 [親鸞最晩年の和讃を読む(その68)]

(6)縁起と本願

 縁起と無我については、同じことを別の言い方をしているだけであるのは見やすいでしょう。縁起とは、あらゆるものごとはお互いに縦横無尽に繋がりあって存在しているということであり、そして無我とは、他との繋がりと関係なく、それだけとして存在している「われ」(これをアートマンと言います)はないということですから、同じことを肯定的に言っているか、否定的に言っているかの違いだけです。世界は混沌とした関係(繋がり、縁)の総体であるということです。
 ここまではいいのですが、さてでは本願はどうか、それは縁起や無我とどう結びつくのでしょう。
 本願とは、いまさら言うまでもないことですが、阿弥陀仏の願いということです。もとのサンスクリットは「プールヴァ・プラニダーナ」、つまり「前の願い」という意味で、阿弥陀仏が阿弥陀仏となる前、まだ法蔵菩薩として修行していたときに立てた誓願ということです。その要諦は「生きとし生けるものが、みな例外なく救われるまでは、わたしも救われることはない(若不生者、不取正覚)」ということです。これは何を意味するのかについて、親鸞はいわゆる「自然法爾章」(『末燈鈔』第5通)でこう教えてくれます、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料なり」と。
 ここで「自然」といいますのは、「行者のはからひ」ではなく「おのづからしからしむ」ということ、つまり「他力」を意味しますから、この文は、「弥陀の本願というのは、他力ということを知らせようとしているのだ」ということです。救いというものは「行者のはからひ(自力)」で得られるのではなく、他力によりはじめて得られるということ、これが弥陀の本願の意味だと言っているのです。ここから本願と縁起の見えないつながりがほの見えてきます。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

仏智を疑う [親鸞最晩年の和讃を読む(その67)]

(5)仏智を疑

 つづく一首を読みましょう。

 仏智の不思議をうたがひて
  自力の称念このむゆゑ
  辺地懈慢(けまん)1にとどまりて
  仏恩報ずるこころなし(第61首)

 注1 なまけおごるという意味で、ここでは辺地と同じく方便化土の名。

 先には「罪福信じ善本をたのむ」とあり、ここでは「自力の称念このむ」となっていますがまったく同じ意味です。念仏することが善因となって往生という善果をえることができると信じるこころで念仏するということです。ここには往生をえようという目論見があり、そのために念仏しなければという計算があります。これが罪福を信じることであり、自力の称念ということです。これはものすごくよく分かります。それも道理で、上で見ましたように、われらは因果の時間の流れを世界のなかに持ち込むことで、混沌とした世界に秩序を与えているのですから、念仏が因で往生が果となるといわれるのはものすごく分かりやすいわけです。
 罪福を信ずるのはよく分かるのですが、分からないのが仏智を信ずるということです。いまの場合、仏智は本願と考えていいでしょうから、本願を信ずるということ、この浄土教の原点がよく分からないということです。釈迦は縁起の法と言いましたが、それを浄土教では本願の教えといいます。両者はまったく違う顔つきをしていますから、それがどうつながっているのかすぐには見えてきません。そこから浄土教などというのは仏教ではないという極論も出てくるのですが、それは浄土教というもの、本願の教えというものをよく知らない人の言うことです。
 縁起と本願は見えない根っ子でしっかりつながっていること、これをまずは確認しておきたいと思います。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

仏智と罪福 [親鸞最晩年の和讃を読む(その66)]

(4)仏智と罪福

 さてこのパラドクスは世界そのものに時間があると考えるところから生まれるのではないでしょうか。カントが言うように、われらが世界に時間を持ち込んでいると考えれば、この難問を解消することができます。こういうことです。われらは世界を時間の流れのなかにおいて見ていますから、アキレスはまたたくまに亀に追いつき、そこに何の不思議もありませんが、しかしわれらが世界に時間を持ち込む前のいわば生の世界についてはどのようにも言うことができ、ゼノンのように、アキレスは亀に追いつけないという理屈も成り立つということです。
 縁起と因果の話にもどりますと、縁起の世界は、あらゆるものが互いに縦横無尽に繋がりあっている世界で、そこには時間の流れはありません。しかし因果の世界は、あることが因となり、それが一定の時間ののちにある果を生み出している世界です。注意すべきは、縁起の世界と因果の世界という二つの世界があるわけではないということです。世界はただひとつですが、その世界に時間という因子を持ち込むと因果の世界が見えてくる。しかし時間の因子を持ち込む前の世界はというと、あらゆるものが混沌と繋がりあっている縁起の世界です。もうひとつ言っておきますと、われらが世界を認識するときには時間の因子が必須である以上、時間の因子を持ち込む前の生の世界はわれらには不可知です。縁起の世界というものの、それはただ混沌と繋がりあっている世界だというだけで、それ以上にどんな世界であるかを積極的に言うことはできません。
 かなり遠回りしてしまいましたが、釈迦のいう縁起の法と、いわゆる因果応報の教えが根本的に異なるものであることが明らかになったと思います。そしてこのうたで仏智といわれているのが縁起の法の智であるのに対して、罪福を信ずるといわれているのは因果応報を信ずることですから、この二つは相反することであり、仏智を疑うことが罪福を信ずることになるのが了解できます。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

時間というもの [親鸞最晩年の和讃を読む(その65)]

(3)時間というもの

 縁起は「繋がり」であるのに対して、因果は「分離」であることを見ましたが、次いで縁起は「双方向」であるのに対して、因果は「一方向(不可逆)」であることを確認しておきましょう。「これあるに縁りてかれあり」は同時に「かれあるに縁りてこれあり」ですが、「この因からこの果が生まれる」は決して「この果からこの因が生まれる」とはなりません。そこからさらに縁起には「時間の流れがない」が、因果には「時間の流れがある」ということが出てきます。因と果の間には、長短の差はあっても、かならず時間の経過があり、ここに因果の法の本質があると言えます。
 ここで時間というものに注目しましょう。前にちょっと言及しましたカントは時間について実に驚くべき発想の転換をしました(これをカントのコペルニクス的転回と言います)。われらは時間というものは世界そのもののありようであると思い込んでいますが、カントはわれらが時間という形式を世界の中に持ち込んでいると言うのです。つまり、混沌とした世界を整然としたものとして認識するために、われらは時間の流れという形式(そして空間の広がりという形式)を世界に当てはめ、そこに人間的な秩序を造り上げているということです。時間(と空間)は世界自体の形式ではなく、われら人間の形式であると。
 そんなばかな、と言われるかもしれません、人間が勝手に世界に時間を持ち込んでいるなんて考えられない、と。でも、世界そのものに時間があるとしますと、困ったことが出てくるのです。
 ゼノンのパラドクス(背理)をご存知でしょうか。いくつかありますが、いちばんよく知られているのが「アキレスと亀」で、足の速いアキレスが前にいる亀を追いかけるが、さて追いつけるかという問題です。ゼノンの答えは驚くべきもので、追いつけないと言うのです。彼の理屈はこうです、アキレスが亀がもといたところに着くまでに、亀はのろまと言えども少しは前進している。アキレスがその距離を詰める間にまた亀はほんの少し前進している。以下同じで、どこまでいっても追いつけない、と。屁理屈とも見えますが、いまも世界の哲学者たちの頭を悩ませ続けている難問です。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 

罪福を信ずる [親鸞最晩年の和讃を読む(その64)]

(2)罪福を信ずる

 すでに本願に遇った人は「本願を疑う」ことはありません。では、まだ本願に遇っていない人はといいますと、「わたしは本願を疑っています」と言う人はまずいないのではないでしょうか(疑うほどに本願に関心を持つのは稀でしょう)。むしろ「わたしは本願を信じています」と言う人の方が多いだろうと思います。本願に遇ってはいないのだが、本願を信じる。ここには本願を信じておいた方がよさそうだという目論見があります。お経に書いてあるし、お坊さんもそう言うし、親からもそう教えられてきたのだから、まあ信じた方が無難だろうという計算。
 これが罪福を信ずるということです。善いことをすれば善い果がえられ、悪いことをすれば悪い果が待っている。だから、善いことをして、悪いことをしないようにしなければならない。本願を信じ念仏するのはおそらく善いことだから、それをすればきっといい結果(往生浄土)が待っているに違いないと信ずる、これが罪福を信ずるこころです。親鸞はこの罪福を信ずるこころこそ本願を疑うこころだと言うのです。自分では本願を信じているつもりだろうが、実は本願を無みしていると言うのです。ここはじっくり腰を落ち着けて熟慮しなければなりません。といいますのも、善因善果・悪因悪果の教え(あるいは因果応報の教え)こそ仏教ではないのか、という根深い思いが多くの人々の心に巣くっているからです。
 ここであらためて縁起の法について考えたいと思います。縁起の教えが、いつの間にか因果応報の教えにすり替わってしまったということを考えたいのです。
 縁起の法とは「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」ということです。これは、あらゆるものは互いに縦横無尽に繋がり合うことにより成り立っていて、その繋がりから切り離されるともう何ものでもなくなる、ということです。分かりやすい例では、人間の臓器は他の臓器たちと複雑に繋がり合ってはたらいていますから、そこから切り離され、身体から取り出されますとたちまち壊死してしまうようなものです。ところが因果の法は、縦横無尽の繋がり(縁)のなかにあるものから、ある因とその果をそれぞれに切り取ってきて、これが因となってこの果を生み出すと考えるのです。このように、縁起の法は「繋がりの法」であるのに対して、因果の法は「分離の法」であるというように、まったく相反する原理です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

不了仏智のしるしには [親鸞最晩年の和讃を読む(その63)]

            第8回 御ちかひをうたがふ

(1)不了仏智のしるしには

 正像末法和讃につづいて仏智疑惑和讃(誡疑讃)がはじまります。その第1首です。

 不了仏智1のしるしには
  如来の諸智2を疑惑して
  罪福信じ善本を
  たのめば辺地5にとまるなり(60)

 注1 仏の智慧(今の場合は本願)を明らかにさとらない(気づかない)こと。
 注2 仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智の五智。
 注3 善因善果・悪因悪果、因果応報を信じること。
 注4 称名を善因として往生しようとすること。
 注5 自力念仏の人が往生する方便化土。

 このうたは、『無量寿経』の終わりの方に「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了(さと)らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ」ものは方便化土に生まれると説かれている文がもとになっています。ここには「本願を信ずる」ことと「罪福を信ずる」ことのコントラストがはっきり出てきます。そして、本願を疑うことは罪福を信じることに他ならず、本願を疑い、罪福を信じることによっては真実報土に往生できないと言われていますが、その意味するところをきちんとおさえなければなりません。
 まずは「本願を信ずる」ことから。もう何遍おなじことを言ってきたか分かりませんが、これが肝心要のことですから、繰り返しを厭わず言いますが、本願を信ずるとは、どこかにある本願を真として取り込む(キャッチする)ことではありません。本願の声がどこからか届いた(聞こえた)ことに気づき、その声に鷲づかみされる(キャッチされる)ことです。ではその逆に「本願を疑う」とはどういうことか。それは「罪福を信ずる」ことに他ならないとされるのですが、いったいどうしてそうなるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

恩徳讃 [親鸞最晩年の和讃を読む(その62)]

(9)恩徳讃

 正像末法和讃の最後に、いわゆる「恩徳讃」がおかれます。

 如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も
  ほねをくだきても謝すべし(59)

 このあまりにも有名なうたのもとになっているのが聖覚法印の文であることが『尊号真像銘文』から分かります。聖覚は「つらつら(法然上人の)教授の恩徳をおもふに、まことに弥陀悲願にひとしきもの」であるゆえに、「身を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし(粉骨可報之摧身可謝之)」と述べているのです。ここで「如来の恩」、「師主の恩」ということについて考えてみたいと思います。
 「恩」という字を字典で調べますと、「心と因(たよる)とをあわせて、人に情けをかけて、たよりにさせる意味をあらわす」とあり、「めぐむ」「情けをかける」の意とされます(角川最新漢和辞典)。さらに「因」を調べますと、「大(大の字型になっている人)と口(敷物)とを合わせた字。人が敷物の上に寝るようすをあらわす。そこから、あるものを下にふまえる、何かをもとにする意味に使う」(同)とあります。
 このところあいつぐ自然災害で住む家を失くし、不便な避難所生活を余儀なくされる人の姿をテレビを通して見ることが多くなりました。そんな生活を強いられる人たちを思いますと、家の畳の上で大の字になって寝ることのできる有り難さを痛感します。そこから、われらがこの世界のなかで安心して生きるということは、大の字になって寝る場所があるということ、そういう場所にめぐまれることであり、それが「恩」ということであることがよく了解できます。
 われらは如来から、そして師主から、本願名号という、その上で大の字になって寝ることができる場所をめぐまれたのですから、「身を粉にしても報ずべし」であり、「ほねをくだきても謝すべし」ではありませんか。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

自然のやう(様)をしらせん料なり [親鸞最晩年の和讃を読む(その61)]

(8)自然のやう(様)をしらせん料なり

 阿弥陀仏はこの世界の外のどこかにいるわけではありません。経典によれば、浄土というのはここから十万億土のかなたにあるのだから、阿弥陀仏はこの娑婆世界の外にいるのではないかと言われるかもしれませんが、少なくとも親鸞はそのようなことを一度たりとも言うことはありません。どころか、こんな驚くべきことを言います、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」(『末燈鈔』5通)と。「自然のやう」とは、その前で親鸞が言っていることから「他力ということ」と理解することができますから、この文は「阿弥陀仏というのは、他力ということを分かりやすく言うための手立てである」ということです。
 他力とはここでは「南無阿弥陀仏はこちらから称える前に向こうから聞かせてもらうもの」ということです。親鸞は法然から聞かせてもらい、法然は善導から聞かせてもらい、さらに善導は道綽からというように。この「向こうから聞かせてもらう」ということはどこかで終了するわけではなく、どこまでもつづいていくものですが、それでは切りがありませんから、便宜上、阿弥陀仏からはじまるとして分かりやすくしているということです。この大胆なことばから、さらに思いを膨らませますと(親鸞から「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」と叱られるかもしれませんが)、阿弥陀仏とは、あらゆるものが互いに縦横無尽に繋がりあっている縁起の世界そのものと言うこともできそうです。アミターバ(無量光)、アミターユス(無量寿)とはこの世界のことだと。
 これまで「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」という言い方をしてきましたが、阿弥陀仏とは「ほとけのいのち」としてのこの世界そのものであり、「わたしのいのち」はこの世界のなかで生かされて生きているということです。そして故郷としての「ほとけのいのち」から「帰っておいで(南無阿弥陀仏)」と呼びかけられることで、「わたしのいのち」は安心して生きる場処を得ることができ、救われるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

神と仏 [親鸞最晩年の和讃を読む(その60)]

(7)神と仏

 問題のありかはキリスト教やイスラム教などの一神教と対比してみることではっきりするでしょう。一神教においても、神や精霊から不思議な声が聞こえてきて、それに救われるというように説かれます。救いはこちらから手に入れることはできず、むこうから与えられるしかないという構図は同じです。ただ、その声がどこから聞こえてくるか。一神教において神はこの世界の外にいるでしょうから(神がこの世界を創造した以上、世界の中にいることはできません)、その声は世界の外からやってくることになります。一神教につきものの神秘性はこの「世界の外」ということから漂ってくるに違いありません。
 その点、仏教には「世界の外」はありません。世界は目の前に広がるこの世界だけで、それ以外に怪しげな背後世界は存在しません。
 そしてこの世界においては、あらゆるものが互いに縦横無尽に繋がりあっていて、それだけとして取り出せるものは何ひとつありません(無尽の繋がりの中からあるものをそれだけ取り出しますと、それはもう死んだものでしかありません、ちょうど人間のどんな臓器もそれを身体から取り出せば、ただちに壊死してしまうように)。この唯一の世界は縁起の世界であるということです。したがって南無阿弥陀仏(帰っておいで)の声が聞こえると言っても、どこか世界の外から聞こえるのではなく、この縁起の世界の中から聞こえるしかなく、縁起の世界の中からということは、縦横無尽の繋がりの中からということに他なりません。親鸞が南無阿弥陀仏の声を聞いたのは、法然聖人と出会い、その仰せを聞くなかのことです。
 しかし、親鸞が南無阿弥陀仏の声を直接聞いたのではなく、法然を通して聞いたのであり、法然もまた善導を通して聞き、そして善導は道綽からというようにどんどん遡及していきますと、ついには阿弥陀仏に行きつきます。そこで、阿弥陀仏とは何か、という疑問がうかびます。よく浄土教は一神教と似ていると言われますが、それは阿弥陀仏が一神教の神と似ていると思われるからでしょう。しかし、それは浄土教を知らない人のはなはだしい誤解であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)