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罪障功徳の体となる [親鸞の和讃に親しむ(その55)]

(5)罪障功徳の体となる

罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくして こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし(第40首)

煩悩菩提の元となる、氷と水のごとくにて、氷おおきに水おおし、障りおおきに徳おおし

前首に「煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」とあるのを受け、「こほりおほきにみづおほし」と詠われます。煩悩という「障り」が多ければ多いほど、菩提という「功徳」が多いと言うのです。先ほど煩悩の気づきと菩提の気づきはひとつであり、煩悩の気づきのあるところ、かならず菩提の気づきがあり、逆に、菩提の気づきのあるところ、かならず煩悩の気づきがあると言いました。しかし実際はといいますと、先ず煩悩の気づきがあり、そのとき、その裏に菩提の気づきがあることに思い至るというかたちになっているのではないでしょうか。両者は同時に起っているのですが、われらの意識にまずのぼるのは煩悩の気づきであり、そしてそのとき菩提の気づきがあることを意識するということです。

煩悩とは無明すなわち闇であり、菩提とは光に他なりません。われらは生まれてこのかた、ずっと闇のなかに生きていながら、それを闇と気づくことはありませんでした。スピノザのことばに「光が光自身と闇とをあらわす」とありますように、闇は闇しかないところでは闇ではありません、光があってはじめて闇と言えるようになります。もし神が「光あれ」と言われる前に生きていた人がいたら(これは「創世記」の想定に反しますが)、彼は光を知らないのはもちろん、闇も知りません。光でも闇でもないノッペラボーの中にいたとしか言いようがありません。ところがあるとき「これは闇ではないか」という気づきが稲妻のように走る。この気づきは自分のなかから起ることは金輪際ありません。どこかから「おまえは闇の中にいるのだよ」という囁きがやってきて、それを傍受することができてはじめて闇に気づくのです。そしてそのとき、この囁きは光からやってきたことに気づきます。

光はこれまでずっとわれらに光自身と闇を気づかせようとしてきたのですが、われらにはまだその準備が整っておらず、闇のなかに生きながら、それを闇と気づくことはありませんでした。ようやくそれに気づく身に育てられ、密かな囁きを傍受することができたのです。


タグ:親鸞を読む
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