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摂取不捨の利益 [親鸞最晩年の和讃を読む(その30)]

(4)摂取不捨の利益

 それを第25首は「摂取不捨の利益」と言います、「信楽まことにうるひとは 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」と。「摂取不捨」ということばは『観無量寿経』の第九観、いわゆる真身観の「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」に由来します。如来の光明は智慧をあらわしますから、摂取不捨の利益をこうむるとは、智慧の光に照らされて、無明の闇(気づかないまま「わがもの」に囚われていること)がはれるということです。「わがもの」への囚われに気づかされるというのは、如来の智慧の光がわれらのもとに届くということです。
 さて、このことばに関連して気になることがあります。摂取不捨の主語は何かということです。経文では弥陀の光明を主語として、弥陀がわれらを摂取してくださると語られるのは当然でしょうが(経典は仏が語るものですから)、浄土真宗系の本を読んでいますと、しばしば「弥陀の光明は云々」、「弥陀の本願は云々」といった言い回しに出会うことになります。著者が真宗の信心を語るのに際して、弥陀を主語としていることに引っかかるのです。経典にはこう書かれています、というかたちで弥陀を主語に語るのは分かりますが、そうではなく地の文でそのように言われますと、心がざわめくのです。
 何を問題にしているのかよく分からんと言われるかもしれませんので、具体的に述べましょう。たとえば蓮如の「おふみ」。「さるほどに、諸仏のすてたまえる女人を、阿弥陀如来ひとり、我たすけずんば、またいずれの仏のたすけたまわんぞとおぼしめして、無上の大願をおこして、我諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、五劫があいだ思惟し、永劫があいだ修行して、世にこえたる大願をおこして、女人成仏といえる殊勝の願をおこしまします弥陀なり」(第5帖、第20通)。他の仏たちが見捨てられてしまった女人をたすけようとして、弥陀は女人成仏の願をおこしてくださったのです、何とありがたいことではありませんか、と蓮如は言っています。
 こういう文に出あいますと、ぼくは聞きたくなるのです、あなたはどこに立っておられますか、と。

タグ:親鸞を読む
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