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智眼くらしとかなしむな [親鸞最晩年の和讃を読む(その41)]

(7)智眼くらしとかなしむな

 いまここが無明長夜であると気づいたときは、同時に本願という大いなる灯炬があることにも気づいています。だからこそ「智眼くらしとかなしむな」と言えるのです。いまここが生死の大海であると気づいたときは、同時に本願という船筏があることにも気づいています。だからこそ「罪障おもしとなげかざれ」と言えるのです。このあたりの消息を具体的に分かりやすく教えてくれるのが『歎異抄』第9章の唯円と親鸞の会話です。ここは何度読んでもしみじみと感じ入るところです。
 唯円が親鸞におそるおそる打ち明けます、「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」と。返ってきた答えはこうでした、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」。何ともうれしい答えではないでしょうか、「念仏には踊躍歓喜のこころが伴っているものであり、それがないのはおまえの信心がおかしいのではないか」とたしなめられるかと思いきや、「いや、わたしも同じだよ」ときたのですから。
 親鸞はこう言います、「いささか所労(しょろう、病気のこと)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」と。本願を聞くことができ、信心歓喜すれば、いつ死んでもいいと思えるはずなのに、実際は死にたくないと娑婆にしがみつこうとしていると言うのです。そしてこう続けます、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう、さかんであるさま)に候ふ」と。それもこれもみな煩悩の所為であるという気づきがあり、そしてその気づきがあるところ、かならず大いなる灯炬の気づきがあります。そこから「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」ということばが出てきます。
 煩悩の気づきは本願の気づきに他ならないのです。

タグ:親鸞を読む
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