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本文6 [『教行信証』精読2(その87)]

(18)本文6

 大行の総括の最後の部分です。

 『安楽集』にいはく、「十念相続とは、これ聖者の一つの数の名ならくのみ。すなはちよく念を積み、思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁(じょうべん)せしめてすなはちやみぬ。またいたはしく頭数(ずしゅ)を記せざれと。またいはく、もし久行(くぎょう)の人の念は、多くこれによるべし。もし始行の人の念は、数を記する、またよし。これまた聖教によるなり」と。已上
 これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。知るべし。

 (現代語訳) 道綽禅師の『安楽集』にこうあります。経に十念相続とありますのは、如来が称名の数として一応上げられたものにすぎません。念仏に親しみ、思いを凝らしてよそ事に紛らわせられないようにすれば、往生の業として成就しますから、煩わしく称名の数を数える必要はありません。またこうも言われます。長く念仏に親しんできた人は、いま述べましたように、わざわざ数を数えることはありませんが、これから念仏を始めようとする人は、数を数えて念仏するのもいいでしょう。これも聖教にあることです。
 これらはみな念仏が真実の行であることを明らかに示しています。まことに念仏は弥陀により選びとられた本願の行であり、世にこえて希有なすぐれた行であり、功徳が円かにそなわった真実の行であり、またどんな煩悩にもさまたげられない大いなる行です。

 称名の数について、念を押すように、『安楽集』から引用され、経に一念とか十念とか書かれていても、その数に囚われることはないと述べられます。こころのなかに本願名号の熾火がある限り、それは折にふれて称名となって口から出るのですから、その数が多いか少ないかなどどうでもいいことです。
 最後にこれまでの総決算として、念仏の行が「選択摂取の本願」、「超世希有の勝行」、「円融真妙の正法」、「至極無碍の大行」の四句にまとめられていますが、「選択摂取の本願」がひっかかるかもしれません。丁寧に言えば、選択摂取の本願の行となるところでしょうが、こうした融通無碍な言い方に妙味があると言うべきでしょう。本願は名号に他ならず、そして名号はそのまま念仏であるというところに他力の他力たる所以があります。

                (第5回 完)

タグ:親鸞を読む
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