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本文5 [『教行信証』精読2(その121)]

(14)本文5

 次に無量寿経から引かれます。

 ゆゑに『大本』(無量寿経のこと)にのたまはく、「声聞あるいは菩薩、よく聖心(しょうしん、仏のこころ)をきはむることなし。たとへば生れてより盲ひたるものの、行(ゆ)いて人を開導せんとおもはんがごとし。如来の智慧海は、深広(じんこう)にして涯底(がいてい)なし。二乗(声聞と縁覚だが、ここでは前後から声聞と菩薩ととるべきか)の測るところにあらず。ただ仏のみひとりあきらかにさとりたまへり」と。以上

 (現代語訳) ですから無量寿経にはこうあります。声聞や菩薩は仏のおこころをよくおしはかることはできません。たとえば生まれつき目の見えないものが、人を導こうとするようなものです。弥陀の智慧の海は深く広く底知れませんから、声聞や菩薩のおしはかるところではありません。ただ仏のみがひとり明らかに悟ることができるのです。

 大経のこの文(往覲偈‐おうごんげ‐の中にあります)がここで引かれたのは「如来智慧海、深広にして涯底なし」と海が出てくるからには違いありませんが、その関連がにわかには了解できないかもしれません。ところが、このすぐ後に『論註』から「海といふこころは、仏の一切種智、深広にして涯(はて)もなし。二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。これを海のごとしとたとふ」という文が引かれ、それが先の「願海は二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸をやどさんや」のもとになっていることが分かりますと、一連のつながりが見えてきます。すなわち、この大経の文、「如来智慧海、深広にして涯底なし。二乗のはかるところにあらず」をもとに、曇鸞が「仏の一切種智、深広にして涯もなし。二乗雑善の中下の屍骸をやどさず」と言い、そしてこの『論註』の文をもとにして、親鸞が「願海は二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸をやどさんや」と言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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