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報土と化土 [『教行信証』精読2(その203)]

(13)報土と化土

 親鸞は『正像末和讃』のなかで仏智不思議を疑惑することによる化土往生についてたくさんの和讃を作っています(誡疑和讃)。「不了仏智のしるしには、如来の諸智を疑惑して、罪福信じ善本を、たのめば辺地にとまるなり(仏智不思議をしらずして その真実をうたがえば 世の善悪をたよりとし 浄土のほとりにとどめらる)」にはじまり、最後の「仏智うたがふつみふかし、この心おもひしるならば、くるゆこころをむねとして、仏智の不思議をたのむべし(ほとけの智慧をうたがうは きわめてつみのおもいこと それに気づけばたちまちに 悔いて本願たのむ身に)」まで同じ趣旨のうたが23首もあります(カッコ内は下手な私訳)。
 さてこれまで見てきましたように、仏智不思議を信ずるとは、仏の心(本願)とわたしの心がひとつになることであり、それが取りも直さず報土に往生することに他なりません。そして報土に往生するとは言っても、この娑婆とは別のどこかにある報土に往くわけではなく、仏智不思議が「いまここに」はたらいている事実を場所として表現して報土と言っているのであり、それに気づくことを往生と言っているのです。この娑婆のただなかに仏智不思議がはたらいている相が報土であり、それに気づいていることが往生です。としますと、仏智不思議を疑う結果として化土にとどまるというのはどういうことか。
 これまた娑婆とは別に、そして報土とも違うところに(そのほとりに)化土があるとするわけにはいきません。経典に説かれる神話的表象を非神話化しなければなりません。そこで、そもそも仏智不思議とは何であり、それを疑うとはどういうことか、ここに戻って考えてみたいと思います。仏智がことばとしてはっきりあらわされているのが弥陀の本願ですが、それをひと言に凝縮すれば「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」(第18願)となります。すなわち一切衆生が救われなければ自分の救いもない、一切衆生の救いと自分の救いはひとつであるということであり、もうひとつ言えば、一切衆生と自分はひとつだということです。

タグ:親鸞を読む
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