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本願力の回向 [「『証巻』を読む」その116]

(3)本願力の回向

曇鸞は『浄土論』の文を注釈するにあたり、「応化身(おうげしん)を示す」と「遊戯(ゆげ)」と「本願力」の三つに焦点をあわせています。

菩薩が還相のはたらきをするのに「応化身を示し」たり、「神通に遊戯し」たりすることができるのも、みな「本願力の回向のもつてのゆゑ」であるということ、ここに『浄土論』の本質があると見ているのです。『浄土論』は一貫して「われら」は如何にして浄土に往生することができ、また衆生利他のはたらきをすることができるかという観点で語られていますが、天親自身、そうしたわれらの自利利他のはたらきの背景に「本願力の回向」があることに気づいていると曇鸞は言うのです。それが「大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起るをもつてなり」という文です。

ここで「遊戯」と「本願力回向」の関係について考えておこうと思います。曇鸞は「遊戯」の意味に、「自在であること」と「度無所度(どむしょど)であること」の二つがあると言います。前者は、獅子が鹿を狩るように思うがまま、自由自在であるということであり、後者は、衆生を済度しているという思いがないということで、両者に共通するのはそこに「はからい」の心がないということです。子どもが遊び戯れているとき、「何かのためにする」といった思いはまったくなく、心のおもむくままに動いていて、そこには一切の「はからい」の心がありません。

もう一度さきの未証浄心の菩薩と平等法身の菩薩の違いに戻りますと、どちらも衆生済度のはたらきをするのは同じですが、前者にはそこに「作心(さしん)」があるのに対して、後者にはそれがないと言われていました。この「作心」が「はからい」の心です。衆生を済度しようという「はからい」の心をもちつつはたらくのと、もうそのような「はからい」の心がなく、ただ心のおもむくままに衆生済度のはたらきをするのとの違いです。どちらもそのはたらきは「本願力の回向(ほとけのはからい)」によることに変わりはありませんが、「本願力の回向」に気づきながらも、「わたしのはからい」から離れられないのが未証浄心の菩薩であるのに対して、もはや「わたしのはからい」はなく、「ほとけのはからい」のままに身が動くのが平等法身の菩薩でしょう。


タグ:親鸞を読む
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