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世界がぜんたい幸福にならないうちは [「『証巻』を読む」その117]

(4)世界がぜんたい幸福にならないうちは

あるとき気楽な雑談のなかで、一人の方が「今生は娑婆で、来生に浄土に往生し、還相のはたらきをするためにまた娑婆に戻ってくるという通俗的な理解にはとてもついていけない」と言われます。そしてこうつづけられます、「しかし、だとすると娑婆と浄土の関係についてどう考えればいいのだろうか」と。それに対してぼくが、「娑婆は娑婆のままですでに浄土です」と答えたところ、「えっ!」という顔になり、「それでは『宗教はアヘン』ということにならないだろうか」と気色ばむ場面がありました。その方は学生運動の経験があると言われ、このことばにもその片鱗が見られます。彼とすれば、娑婆を浄土にしていこうとしてこそ真っ当な真宗の教えではないかということでしょう。ひょっとしたら彼の頭には一揆に立ち上がる農民門徒のイメージがあるのかもしれません。

問題は還相のはたらきをどう捉えるかということです。

本願に遇うことができた人(本願の人と言いましょう)は、そのときただちに還相のはたらきに入ることになりますが(曇鸞はそれを「願作仏心はすなはちこれ度衆生心」と言っていました)、さてそれは娑婆に浄土をつくることでしょうか。そもそも本願の人にとって、「わたしのいのち」はそのままですでに「ほとけのいのち」であり、したがって娑婆は娑婆のままですでに浄土です。本願の人は「その心、すでにつねに浄土に居す」(末燈鈔、第3通)のですから、あらたに浄土をつくりだす必要はありません。では還相のはたらきとは何をすることでしょうか。

還相の心は、宮沢賢治のことばを借りますと、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」ということですが、それはしかし「世界がぜんたい幸福になる」ようにしなければならないということではありません。「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と気づく人が広がるように願うことです。「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と気づくことと、娑婆は娑婆のままですでに浄土であると気づくことは別ではありません。


タグ:親鸞を読む
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