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まず命があり [『教行信証』精読(その116)]

(14)まず命があり

 帰命が「命にしたがう」ことであるとしますと、帰命に先立って命が届いていなければなりません。まず命が届き、しかる後にその命にしたがうのです。われらはともすると、まずわれらの帰命があり、しかる後に如来の応答がある(われらが念仏することにより、如来がそれに応えてくださる)と思いますが、そうではなく、帰命があるということは、それに先立って命が来ていなければなりません。まず如来の命があり、それへの応答としてわれらの帰命があるのです。親鸞はこの如来からわれらへのベクトルを示唆して、命とは「使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と注釈してくれたに違いありません。
 行者から如来へのベクトルより前に、如来から行者へのベクトルが届いていることをみてきましたが、これをさらに別の観点から考えてみましょう。
 天親は『浄土論』の冒頭に、ということは、何の根拠も示さずに、「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と言いますが、どうして天親は「尽十方無碍光如来に帰命したてまつる」のか、そうすることにどんな根拠があるのかが問われなければなりません。それは「経にそう書いてあり、天親はそれを信じるから」でしょうか。しかし経にもいろいろあります。浄土の経典には確かにそう書いてありますが、どうして他の数ある経典類をおいて、特に浄土の経典を選ぶのか。このように問い詰めていくとき、とどのつまり、天親が尽十方無碍光如来に帰命するのは、如来から「そうせよ」との命が天親その人に届いているからというところに行きつきます。
 天親が「尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」るのは、天親が帰命し願生するよりはるか前から(十劫のむかしから)、如来から一切衆生に「尽十方無碍光如来に帰命し、安楽国に生ぜんと願ぜよ」との命が下っており、天親はあるときそのことに気づいたからに他なりません。如来から「帰っておいで」の声がするから、「はい、ただいま」と応じたのです。

タグ:親鸞を読む
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