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光明と名号 [『阿弥陀経』精読(その18)]

(9)光明と名号

 前に極楽国土とは「実体」ではなく「はたらき」であると言いましたが、同様に阿弥陀仏も「実体」ではなく「はたらき」として存在します。で、どういう「はたらき」かと言いますと、ひとつは「光明」として十方世界を隈なく照らすということ、もうひとつは「名号」として一切衆生のこころに送り届けられるということです。ひとつは「ひかり」としてのはたらき、もうひとつは「こえ」としてのはたらきです。いま阿弥陀仏は「無量のひかり(アミターバ)の仏」であり、「無量のいのち(アミターユス)の仏」であると言われましたが、これを「ひかり」としてのはたらきも、「こえ」としてのはたらきも無量であると理解することができます。「いのち」が無量であるということは、「こえ」としてのはたらきが永遠に途絶えることがないということです。
 さてその光明と名号について、親鸞は「行巻」でこう語っています、「まことに知んぬ、徳号(名号です)の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、過去の業による識別作用)にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむとのたまへり」と。「二重の因縁」とよばれるところで、まず名号が因、光明が縁となって往生できるのですが(第一重の因縁)、しかしそう言うだけでは不十分で、さらに信心という因があり、光明・名号という縁があってはじめて往生できると言わなければならないということです(第二重の因縁)。
 ここはしかし注意が必要なところです。信心が因と言われますと、光明・名号に信心をつけ加えることではじめて往生ができるものと思ってしまいますが、信心とはこちらからつけ加える何かではなく、ただ光明・名号が自分に届いていることに気づくことです。光明・名号があっても信心がなければ往生できないのはその通りですが、それは信心という気づきがなければ光明・名号が縁としてのはたらきをすることができず、したがって往生できないという結果になるということに他なりません。光明・名号に気づくことが信心であり、それが取りも直さず往生することです。

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本文3 [『阿弥陀経』精読(その17)]

(8)本文3

 これまでは依報荘厳でしたが、今度は正報荘厳、すなわち極楽国土にいる阿弥陀仏と聖聚たち(声聞・菩薩)のことが讃えられます。

 舎利弗、なんぢが意(こころ)においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙(しょうげ)するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民(の寿命)も無量無辺阿僧祇劫(あそうぎこう)なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。舎利弗、阿弥陀仏は、成仏よりこのかたいまに十劫なり。また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり、みな阿羅漢なり。これ算数(さんじゅ)のよく知るところにあらず。もろもろの菩薩衆、またまたかくのごとし。舎利弗、かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。また舎利弗、極楽国土には、衆生生ずるものはみなこれ阿毘跋致(あびばっち、不退、仏に成ることから退転しない)なり。そのなかに多く一生補処(一生を過ぎれば仏処を補うべき地位)あり。その数はなはだ多し。これ算数のよくこれを知るところにあらず。ただ無量無辺阿僧祇劫をもつて説くべし。舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人(もろもろのすぐれた聖聚)とともに一処に会する(倶会一処)ことを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

 まずは阿弥陀仏について。釈迦は舎利弗に問います、極楽国土の仏をどうして阿弥陀というのだろうか、と。阿弥陀とは「アミタ」すなわち「無量」という意味ですが(amitaのaは否定辞で、mitaは有量ですから、amitaで無量の意味になります)、何が無量なのだろうかということです。その問いにみずから答えて、まずその光明(abha)が無量であると言います(amitabha、アミターバ)。その光明は十方世界を隈なく照らすということです。そしてさらに寿命(ayus)が無量だと言います(amitayus、アミターユス)。阿弥陀仏とは無量のひかりの仏(無量光仏)であり、無量のいのちの仏(無量寿仏)であるということです。

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名号を執持する [『阿弥陀経』精読(その16)]

(7)名号を執持する

 少し先になりますが、極楽国土の荘厳を讃える段が終わり、次にその極楽国土へどのようにすれば往生できるかという、この経の肝心要の箇所がはじまるに当り、こう述べられます、「舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持(しゅうじ)すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚と現じてその前にましまさん」と。
 細かいことはその段を読むときのことにしまして(第3回)、ここで注目したいと思いますのは「名号を執持すること」が往生の行として何の説明もなく突然出てくることです。名号を執持するとは、言うまでもなく、阿弥陀仏の名を称えることですが、さてどうして極楽国土に往生するのに、阿弥陀仏の名を称えることが持ち出されるのか、この文を読むだけでは判然としません。しかし、実はいま読んでいるところにその伏線が張られているのです。すなわち、極楽国土にはさまざまな鳥の声や風の音が響いていますが、それは「みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流せしめんと欲して」のことであり、「この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず」と説かれていることに関係してくるのです。
 「仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる」というのは、仏法僧を称える(たたえる、とともに、となえる)ことに他ならず、極楽国土には仏を称え、法を称え、僧を称える声が満ち満ちているということです。仏法僧を称える声とは南無阿弥陀仏を称える声に他なりませんから、極楽国土とは南無阿弥陀仏が満ち満ちている世界です。前にも言いましたように、その声は極楽国土に限られることはありません、十方微塵世界に隈なく届いているに違いありません。そして、その声が聞こえたということは極楽国土と阿弥陀仏に遇えたということです。だからこそ、こう言えるのです、「舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること」で極楽浄土に往生できるのだと。いや、極楽浄土から聞こえてくる声に唱和して南無阿弥陀仏を称えるとき、その人のこころはもうすでに極楽浄土にいるのです。

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はたらき [『阿弥陀経』精読(その15)]

(6)はたらき

 この段を一読して感じるのは、極楽国土は何ともさまざまな麗しい音声に満ち満ちた世界だということです。前段では四宝や七宝、あるいはさまざまな色の蓮華が放つ美しい光が印象的でしたが、ここではそれに代わって麗しい音声が主役となります。
 極楽国土と言われますと、どうしても実体としてどこかに存在する世界を思い浮かべてしまいますが、これまで検討してきましたように、そこがどれほど素晴らしい世界であっても「ここ」と無縁であっては何の意味もなく、「ここ」にどのような「はたらき」をするかが本質的なことです。つまり極楽国土とは「実体」(仏教では「体」とよばれます)ではなく「はたらき」(「用」‐ゆう-です)であるということ、ここにポイントがあります。先の大円と小円の関係でいいますと、極楽国土という大円は娑婆世界の小円をすっぽり包み込み(摂取ということばで表現されます、「正信偈」に「摂取の心光、つねに照護したまふ」とあります)、つねにはたらきかけつづけているということです。
 その「はたらき」をするのが光とそして音声です。
 この文のなかには「天の楽」、そして「白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥」の声、さらに「微風吹きて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かす」音が出てきますが、それを聞くものは「みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず」るという「はたらき」をしています。この音声は極楽国土にだけ聞こえるわけではなく、他の仏国土まで(したがってわれらの娑婆世界にも)届いていることでしょう。なにしろ極楽国土からしますと、他の仏国土との境界線などどこにもなく、ただ大きな円が広がっているだけですから。
 それを示唆するのが「その国の衆生、つねに清旦をもつて、おのおの衣裓をもつて、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる」という一文です。その国の衆生(次の段に出てくる極楽国土の聖聚です)は、日々、他の仏国土との間を行き来して、極楽国土の妙華をもって諸仏を供養しているのですから、彼らは光と音声も身にまとって十方微塵世界を往来しているに違いありません。極楽国土に響いているさまざまな麗しい音声は、われらの娑婆世界にまでちゃんと届いているのです。ただそれに気づくかどうかだけが問題です。

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本文2 [『阿弥陀経』精読(その14)]

(5)本文2

 つづけて極楽国土の荘厳が讃歎されます。

 また舎利弗、かの仏国土には、つねに天の楽をなす。黄金を地とし、昼夜六時(晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜)に天の曼陀羅華(まんだらけ)を雨(あめふ)らす。その国の衆生、つねに清旦(しょうたん、夜明け)をもつて、おのおの衣裓(えこく、華皿)をもつて、もろもろの妙華(みょうけ)を盛(い)れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなはち食時(じきじ)をもつて本国に還り到りて、飯食(ぼんじき)し経行(きょうぎょう、散歩)す。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。また次に舎利弗、かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠(びゃくこう、白鳥)・孔雀・鸚鵡(おうむ)・舎利(黒色でことばを暗唱する)・迦陵頻伽(かりょうびんが、美しい声を出す)・共命の鳥(ぐみょうのとり、二つの頭をもつ)なり。このもろもろの鳥、昼夜六時に和雅(わげ)の音(こえ)を出(いだ)す。その音、五根・五力・七菩提分・八正道分、かくのごときらの法を演暢(えんちょう、広く説きのべる)す。その土の衆生、この音を聞きをはりて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。舎利弗、なんぢこの鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂(おも)ふことなかれ。ゆゑはいかん。かの仏国土には三悪趣(さんまくしゅ、地獄・餓鬼・畜生)なければなり。舎利弗、その仏国土にはなほ三悪趣の名すらなし。いかにいはんや実あらんや。このもろもろの鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音を宣流(せんる、述べひろめる)せしめんと欲(おぼ)して、変化(へんげ)してなしたまふところなり。舎利弗、かの仏国土には、微風(みふう)吹きて、もろもろの宝行樹および宝羅網を動かすに、微妙の音を出す。たとへば百千種の楽を同時にともになすがごとし。この音を聞くもの、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず。舎利弗、その仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

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娑婆と極楽 [『阿弥陀経』精読(その13)]

(4)娑婆と極楽

 真実という大円のなかに「ここ」という小円が包みこまれているという図をもとに、もう少し考えつづけたいと思います。
 真実という大円とは取りも直さず極楽国土で、そのなかに包まれる「ここ」という小円は取りも直さず娑婆世界ですから、極楽国土は娑婆世界から遠く隔たっているのではなく、娑婆世界にすぐ接して極楽国土が広がっているということになります。そこで考えたいのはその境界線のことです。境界線と言いましたが、それはわれら(娑婆世界)から見てのことであるということ、このことをまず考えなければなりません。われらはそうと意識することなく、厚い壁をつくってそのなかにその中にみずからを閉じこめています。それがこれまで「われへの囚われ(我執)」ということばで言ってきたことで、われらは無意識のうちにみずから「わたし」という牢獄のなかに囚われているのです。
 この「わたし」という壁がある限り、極楽国土は「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて」あり、「ここ」とは絶対的に超越したところとならざるをえません。
 しかし「わたし」という壁などというものはそもそも存在しないとしたらどうでしょう。自分でそうと意識することなく閉じこめているとか囚われていると言ってきましたのは、もともとそんな壁(境界線)はありもしないということです。極楽国土という大きな円からしますと、娑婆世界との境界線などどこにもありません、ただ大きな円があるだけです。だから極楽国土の光明(光は真実の智慧を象徴します)は何ものにも遮られることなく、一切衆生の上に降り注いでいます。正信偈に「摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」とありますように、いくら「わたし」という壁(貪愛瞋憎の雲霧)を設けようと、そんなものは素通しにして弥陀の光明はわれらに届いているのです。
 極楽国土はわれらの目の前に現在しています。

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内在と超越 [『阿弥陀経』精読(その12)]

(3)内在と超越

 さてでは結局のところ真実はどこにあるのでしょう。「世間虚仮」であり、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」であるとしますと、真実は「ここ」にはないということになりますが、しかしだからといって、それは「これより西方に、十万億の仏土を過ぎ」たところにあると言って済ましているわけにはいきません。そんなに遠く隔たったところにある真実をどのようにして知ることができるのかという問いがすぐさま突き付けられます。そこが「ここ」とは無縁の世界でしたら、そこにある真実もわれらとは無縁であると言わざるをえません。としますと、真実は「ここ」に内在するのではありませんが、しかし「ここ」からはるかに超越しているのでもないということです。
 真実は「ここ」に内在しているのでもなければ、「ここ」から超越しているのでもない、これはいったいどういうことでしょう。
 もういちど「世間虚仮、唯仏是真」ということばに戻りましょう。われらはこのことばをつかみ取ることができず、それがわれらをつかみ取るということでした。これは、このことばはわれらの中から出るものではなく、むこうからやってきてわれらのこころに沁みわたると言い換えることができましたが、「われらの中から出るものではない」ということが「内在しているのではない」ことに他ならず、「われらのこころに沁みわたる」ということが「超越しているのでもない」ことに他なりません。
 大きな円のなかに小さな円がある図を思い浮かべてください。大円が「ここ」、小円が真実という関係、これが内在です。真実は「ここ」の内にあります。一方超越というのは、こちらに大円(「ここ」)があり、その外部のはるかな遠くに小円(真実)があるという関係です。真実は「ここ」とは無縁の世界に超然としてあります。では「内在ではなく、超越でもない」というのはどういう図になるでしょう。最初の場合と同様、大円のなかに小円が包まれるのですが、今度は大円が真実で、小円が「ここ」という関係になります。大きな真実のなかに「ここ」が包みこまれている―これが真実は「ここ」に内在するのではないが、しかし「ここ」から超越しているのでもないということです。

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世間虚仮 [『阿弥陀経』精読(その11)]

(2)世間虚仮

 聖徳太子のことばとされるものに「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」があります。世間には真実がなく、ただ仏にだけ真実があるというのですが、このことばはわれらを否応なく頷かせる力があります。さてしかし、その一方で、このことばには不条理がつきまといます。世間(この娑婆世界ということです)には真実がないということを、どのようにして知ることができるのかということです。「世間には真実がない」と言う人が世間にいるとしますと、その人の言うことも真実ではないということになり、どうしようもないパラドクスに巻き込まれます。もしそのように言う人がこの世間にいないとしますと、その人はもうこの世の人ではないということです。
 としますと「世間虚仮」ということばはただのナンセンスでしょうか。親鸞は同じ趣旨のことを「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と言いましたが(『歎異抄』後序)、このことば自体が「そらごとたわごと」でしょうか。とんでもありません、このことばには有無を言わさぬ迫真性があり、われらのこころをグイッとつかみ取って放しません。このことばは、われらがそれをつかみ取ろうとしますと火傷を負ってしまうのですが、なんと、このことばがわれらをつかみ取って放さないのです。
 このことばはわれらから出るものではなく、どこかからやってくるということです。さてしかし、いったいどこからやってくるのか。ここに「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ」と言わなければならない必然性が出てきます。そして「その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」のだとしますと、「世間虚仮、唯仏是真」や「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」はそのようにしてむこうからやってくるということです。その声がこの土にいるわれらのこころに届き、しっかりつかみ取って放さないのです。

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本文1 [『阿弥陀経』精読(その10)]

             第2回 極楽の荘厳

(1)本文1

 これから極楽の荘厳(すばらしいありよう)が讃歎されていきます。

 また舎利弗、極楽国土には七重の欄楯(らんじゅん、玉垣)・七重の羅網(らもう、珠をつらねた飾り網)・七重の行樹(ごうじゅ、並木)あり。みなこれ四宝(金・銀・瑠璃・玻璃)周帀(しゅうそう、周りをめぐらせる)し囲繞(いにょう)せり。このゆゑにかの国を名づけて極楽といふ。また舎利弗、極楽国土には七宝の池あり。八功徳水そのなかに充満せり。池の底にはもつぱら金(こがね)の沙(いさご)をもつて地に布(し)けり。四辺の階道(階段)は、金・銀・瑠璃・玻璃合成(ごうじょう)せり。上に楼閣(高殿)あり。また金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・赤珠(しゃくしゅ)・瑪瑙(めのう)をもつて、これを厳飾(ごんじき)す。池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色(おうしき)には黄光、赤色(しゃくしき)には赤光、白色(びゃくしき)には白光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。

 極楽国土の素晴らしさを讃嘆するのに二つあり、その国土そのもの(依報と言います)の荘厳を讃えることと、そこに住む仏・菩薩(正報と言います)を讃えることがあります。で、まず依報の荘厳ですが、浄土三部経を読む時もっとも退屈するのがこの部分です。やたら四宝やら七宝やらが出てきて、それらが欄楯やら羅網やら行樹、あるいは池や楼閣を荘厳しているさまが描かれるのですが、「このゆゑにかの国を名づけて極楽といふ」と言われても一向にピンときません。どうもインド人とわれらではその感覚がよほど違うのではないかと思わせられます。
 ともあれここで釈迦が説こうとしているのは、極楽国土はこの娑婆世界とはおよそ異なる別世界であるということでしょう。娑婆世界をどれほど隈なく探し回っても、どこにも極楽は見つからない、それはこことは遠く隔たったところ、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて」あるのだと。問題の本質は、真実はどこにあるのかということでしょう。真実は「ここ」にあるのか、それとも「ここ」とは遠く隔たったどこか別のところにあるのか、これが問題です。

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ほとけの願い [『阿弥陀経』精読(その9)]

(9)ほとけの願い

 しかしどうして事実として語るとピンとこないことが物語として語ることですーっと通るのでしょう。
 ここでまた登場するのが「こちらからゲットする」と「むこうからゲットされる」の対です。「真実の願い」を「こちらからゲットしようとする」のと、「真実の願い」に「むこうからゲットされる」のと。「みんなが救われてはじめて自分の救いもある」という「真実の願い」をこちらからゲットしようとしますと、「そうは言っても、われらはみな自分の救いに血道を上げているではないか」という疑念が頭をもたげてきます。かくして「自分の救い」と「みんなの救い」が矛盾対立してしまい、「真実の願い」をうまくゲットできない。
 しかし「みんなが救われてはじめて自分の救いもある」は「真実の願い」としてわれらに有無を言わせず迫ってきます。この願いにわれらは「むこうからゲットされる」のです。そしてこのことを語ろうとしますと、どうしても物語が必要になってきます。「むこうから」とはどういうことかを言おうとしますと、「ほとけから」と言うしかないからです。かくして「法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、…無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」(正信偈)と説かれることになります。「みんなの救い」が「ほとけの願い」として一切衆生にかけられていると語らざるをえないということです。われらはみなそれぞれに「自分勝手な願い」をもって生きているのですが、そんなわれらに「そのままわたしのもとに帰っておいで」という「ほとけの願い」が届いている―これが「真実の願い」を物語として語るということです。
 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」と説かれるのは、「この土」に真実はないが、「これより西方に」極楽があり、そこにまします阿弥陀仏から真実の光がわれらのもとに届いており、その光に照らされてわれらは生きていくことができるのです、と語っているのです。

                (第1回 完)

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