SSブログ

不如実修行といへること [親鸞の和讃に親しむ(その59)]

(9)不如実修行といへること

不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく 一者信心あつからず 若存若亡(にゃくぞんにゃくもう、あるがごとくなきがごとし)するゆゑに(第48首)

南無阿弥陀仏となえても、願いかなわぬそのわけは、ひとつ信心あつからず、あるかなきかのようなれば

二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば 三者信心相続せず 余念間故(よねんけんこ、雑念がまざる)とのべたまふ(第49首)

ふたつ信心さだまらず、あちこちゆれるゆえなれば。みっつ信心持続せず、余念まじわるゆえなれば

この二首は一連のもので、いわゆる「三不信」について詠われます。曇鸞は「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す。よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と述べたあと、ではどうして名号を称えているのに、無明の闇が破られず志願が満たされないことがあるのかと問い、それにみずから答えてこの「三不信」を出しているのです。要するに、名号を称えても志願が満たされないのは、真実の信心がないからだと言うのです。ではその三つの不信とは何かと言うと、一つは「あつからず(不淳)」、二つに「一ならず(不一)」、三つに「相続せず(不相続)」で、平たく言いますと、信心が「あやふや」で「ふらふら」し「つづかない」ということです。この三つはつながりあっており、つまるところ「他力の信」ではないということに行きつくでしょう。

ある方がよく「“ほとけ”というものがどうにもはっきりしないのですが」と言われます。「ほとけ」とはどういう存在で、どこにいるかがぼんやりしているから、本願と言われても名号と言われても霧の中にあるように感じられるということです。まさに「あやふや」で「ふらふら」し「つづかない」ということですが、それはどうしてかと言いますと、「ほとけ」をこちらからつかみ取ろうとしているからです。「ほとけ」とは「無量のいのち」に他なりませんが、われら「有量のいのち」が「無量のいのち」をつかみ取ることは土台無理です。もしつかみ取ることができたとしますと、それはもはや「無量のいのち」ではありません。なぜなら、そのとき「無量のいのち」の外に「有量のいのち」があることになり、「無量のいのち」ということに矛盾します。

かくして「ほとけ」をこちらからつかみ取ることはできません。しかし「ほとけ」はむこうからわれらをむんずとつかみ取ってくるのです。そのとき信心はもう「あやふや」ではなく、「ふらふふら」することもなく、「つづかない」こともありません。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

無礙光如来の名号と [親鸞の和讃に親しむ(その58)]

(8)無礙光如来の名号と

無礙光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜(じょうや)の闇(あん)を破し 衆生の志願を満てたまふ(第47首)

無碍光仏の名号と、その光明はひとつにて、無明長夜の闇を破し、衆生の願い満たしたり

如来の名号(こえ)と光明(ひかり)は、無明の闇を破り、われらの願いを満たしてくださると詠われます。この和讃は『論註』の一節、「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す。よく衆生の一切の志願を満てたまふ」にもとづいて詠われています。如来の不思議なこえとひかりがわれらのこころに届くと、そのときわれらの願いが満たされると言うのですが、この願いとはわれら各自の勝手な願いのことではないでしょう。健康で長生きしたい、とか、もっと豊かになりたい、などといった願いではなく、それらの雑多な願いの底の底に潜む、われらのほんとうの願いが満たされるということに違いありません。そんな願いがこころの底の底にあるなどと思いもせずに日々の生活に追われて暮らしているのですが、あるときふと「ああ、これがわれらのほんとうの願いではないか」と気づかされるのです。それは「生きとし生けるものみながともに救われる(往生する)」という願いです。

しかし弥陀の名号と光明に遇うことで、ただそれだけで、「衆生の志願が満てたまふ」のはどういうことでしょう。

それは、名号と光明に遇うということは、「みなともに救われる」ことがわれらのこころの底の底にあるほんとうの願いであることにはじめて気づかされることであり、そしてまたその願いは実に如来の願いであることに気づかされることに他ならないからです。第18願の「若不生者、不取正覚(一切の衆生が往生できなければ、わたしの救いもありません)」に如来の願いが凝縮されています。生きとし生けるものみなが救われてはじめてわたしの救いもある、というのが如来の願いです。としますと、われらのほんとうの願いである「みなともに救われたい」は、それに気づいたそのとき、もうすでに満足されているではありませんか。われらが「みなともに救われたい」と願うより前に、すでに如来にそのように願われているのです。そのことに気づくだけで、もう「みなともに救われている」のです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

安楽仏国に生ずるは [親鸞の和讃に親しむ(その57)]

(7)安楽仏国に生ずるは

安楽仏国に生ずるは 畢竟(ひっきょう)成仏の道路にて 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり(第43首)

安楽国に生まれるは、ついに仏になるための、この上のない手立てとて、諸仏浄土をすすめたり

『論註』に「かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」とあるのにもとづいています。往生浄土はかならずついには成仏に至る道路であり、仏となるのにこれ以上の手立てはないということです。ここで注目すべきなのは、往生を「道路」という「線」をイメージさせることばで表現していることです。われらはともすると往生を「点」として見てしまいがちではないでしょうか。何かが完結したというイメージで、いわば「あがり」として見ているところがあります。これは伝統的な浄土の教えがわれらのなかに染み込ませたイメージですが、この道路ということばは、往生とは実はこれから仏となるべき道がはじまり、成仏に至るまでずっとつづくのだと言っているのです。「はじまり」としては点でも、これからずっとつづくのですから線です。

「点」としての往生のイメージはおのずから死と結びつきます。往生は臨終のときであるというのはもう揺るがぬ通念として伝えられてきました。しかし親鸞は敢然とこう言います、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり」(『末燈鈔』第1通)と。臨終に弥陀の来迎を受けて往生するという伝統的な見方をするのは、自力の諸行往生の行者であり、真実の信心をもっていないものであるとはっきり言います。では真実の信心をもつものはというと、信心をえたそのときに「摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(同)と言うのです。

「信心の定まるとき往生また定まる」とは、信心のはじまるときに、往生がはじまるということです。そしてそれは「畢竟成仏の道路」としてこれからずっとつづくのです。それが正定聚不退としての生です。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

名号不思議の海水は [親鸞の和讃に親しむ(その56)]

(6)名号不思議の海水は

名号不思議の海水は 逆謗(ぎゃくほう、五逆と誹謗正法)の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり(第41首)

不思議なるかな海の水、どんな屍骸もとどめない。あらゆる川を受け入れて、功徳の水に同化する

本願名号の海はあらゆるものを受け入れ、どんな悪も飲み込んでひとつにする不思議なはたらきがあることが詠われます。正信偈に「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」とあるのと同趣旨です。「法の下の平等」ということばがありますが、これは平等と言いながら、各人に差別があることが前提されています。ひとり一人その能力においても、貧富においても、地位においてもそれぞれ差別があることは当然とした上で、法はそうした違いにかかわらず、みんな平等に扱い、一切差別しないということです。本願の海も同じです。衆水(万川)はみな違っていて、濁った水もあるし、清らかな水もありますが、本願の海に入ってしまえば、そんな違いはまったく問題とならず、みな同じ味わい(一味)になります。本願の海に入ったからといって、これまでの違いが消えてしまうわけではありませんが、そんな違いに関係なくみな同じ安心(あんじん)が与えられるということです。

本願の海に入るということは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」となるということです。そのとき「わたしのいのち」としては千差万別ですが、その千差万別の「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」としてはひとつになるのです。そして「ほとけのいのち」としてひとつであれば、「わたしのいのち」としてどれほど差別があろうが、そんなことはもう気にならず、かけがえのない「わたしのいのち」としていとおしくなります。その反対に、「わたしのいのち」がただひたすら「わたしのいのち」でしかありませんと、他人との違いしか目に入らなくなります。そして他人より上だと思えば、鼻持ちならない優越感を抱き、他人より下だと見れば、どうして自分はこうも見劣りするのかと、かけがえのない「わたしのいのち」をいじめることになるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

罪障功徳の体となる [親鸞の和讃に親しむ(その55)]

(5)罪障功徳の体となる

罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくして こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし(第40首)

煩悩菩提の元となる、氷と水のごとくにて、氷おおきに水おおし、障りおおきに徳おおし

前首に「煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」とあるのを受け、「こほりおほきにみづおほし」と詠われます。煩悩という「障り」が多ければ多いほど、菩提という「功徳」が多いと言うのです。先ほど煩悩の気づきと菩提の気づきはひとつであり、煩悩の気づきのあるところ、かならず菩提の気づきがあり、逆に、菩提の気づきのあるところ、かならず煩悩の気づきがあると言いました。しかし実際はといいますと、先ず煩悩の気づきがあり、そのとき、その裏に菩提の気づきがあることに思い至るというかたちになっているのではないでしょうか。両者は同時に起っているのですが、われらの意識にまずのぼるのは煩悩の気づきであり、そしてそのとき菩提の気づきがあることを意識するということです。

煩悩とは無明すなわち闇であり、菩提とは光に他なりません。われらは生まれてこのかた、ずっと闇のなかに生きていながら、それを闇と気づくことはありませんでした。スピノザのことばに「光が光自身と闇とをあらわす」とありますように、闇は闇しかないところでは闇ではありません、光があってはじめて闇と言えるようになります。もし神が「光あれ」と言われる前に生きていた人がいたら(これは「創世記」の想定に反しますが)、彼は光を知らないのはもちろん、闇も知りません。光でも闇でもないノッペラボーの中にいたとしか言いようがありません。ところがあるとき「これは闇ではないか」という気づきが稲妻のように走る。この気づきは自分のなかから起ることは金輪際ありません。どこかから「おまえは闇の中にいるのだよ」という囁きがやってきて、それを傍受することができてはじめて闇に気づくのです。そしてそのとき、この囁きは光からやってきたことに気づきます。

光はこれまでずっとわれらに光自身と闇を気づかせようとしてきたのですが、われらにはまだその準備が整っておらず、闇のなかに生きながら、それを闇と気づくことはありませんでした。ようやくそれに気づく身に育てられ、密かな囁きを傍受することができたのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

無礙光の利益より [親鸞の和讃に親しむ(その54)]

(4)無礙光の利益より

無礙光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる(第39首)

無碍のひかりに遇うことで、功徳大きな信をえて、煩悩の氷すでに解け、すなわち菩提の水となる

不思議なひかりに遇い、「無量のいのち」に気づきますと、煩悩の氷がとけて菩提の水となると詠われます。普通は(聖道門では)、ただ「煩悩すなはち菩提なり」と言われることが、ここでは「威徳広大の信をえて」、そのときはじめて「煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」と言われています。とつぜん「煩悩即菩提」と示され、そこに真実があると言われても、われら凡夫は戸惑うばかりですが、その前に「信(気づき)をえて」があることで、まさに氷がとけるように「煩悩即菩提」が身に沁みてきます。つまり煩悩といい、菩提というのも、それ自体としてあるものではなく、「気づき」としてあるということです。煩悩も菩提も、それを煩悩と気づき、菩提と気づくことではじめて姿をあらわすのです。煩悩のもとは無明ですが、無明は、生まれてこのかたずーっとその中で暮らしてきたものにとっては(たとえば深海魚が生まれてこの方ずーっと真っ暗闇の中を生きてきたように)、無明でも何でもありません。ひかりに遇うことではじめて無明となるのであり、それが無明に気づくということに他なりません。これまで無明のただなかにいながら、それを無明とは気づかずに生きてきたのですが、ひかりに気づくと同時に無明にはじめて気づくのです。

このように煩悩(無明)の気づきがあるところ、同時に菩提(ひかり)の気づきもあり、逆に、菩提の気づきがあるところ、同時に煩悩の気づきもあります。このことは煩悩の気づきと菩提の気づきはひとつにつながっていて切り離せないということです。煩悩と菩提がひとつだというのではありません(それでは何ともならない矛盾です)、煩悩の気づきと菩提の気づきがひとつだということです。「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるというのも同じで、「わたしのいのち」の気づきと「ほとけのいのち」の気づきはひとつであるということです。「わたしのいのち」を生きていると気づいたとき、同時に「ほとけのいのち」に生かされていることにも気づいています。「ほとけのいのち」に生かされて「わたしのいのち」を生きていると気づくのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

還相の回向ととくことは [親鸞の和讃に親しむ(その53)]

(3)還相の回向ととくことは

還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有(しょう)に回入(えにゅう)して 普賢(ふげん)の徳を修するなり(第36首)

還相回向ということは、衆生利益のためにとて、ただちに娑婆に戻り来て、普賢の徳を示すこと

さて次に還相回向です。まずことばの意味ですが、「諸有」には左訓に「十方のよろづの衆生なり」とあり、「普賢の徳」には、「普賢といふは仏の慈悲の極まりなり」とあります。先の和讃で弥陀の回向には「悲願の信行をえしむ」往相回向があると詠われ、この和讃で弥陀の回向にはもう一つ、「利他教化の果をえしむ」還相回向があると詠われます。そして「利他教化」とは「十方のよろづの衆生」のなかに入り、慈悲のはたらきをするということです。これはどちらも弥陀の回向(たまもの)ですから、「悲願の信行」が与えられることと「利他教化の果」が与えられることはコインの表と裏のようにひとつであるということです。すでに述べましたように(1、第34首)、先ず往相、しかる後に還相ではなく、往相がそのままで還相です。

さてしかし往相がそのまま還相とは実際のところどういうことか。それを考えるためにもう一度「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむ」ことに戻りたいと思います。われらが悲願の信行を得ることができたということは、弥陀の方便によってそのような身へと育てられたということです。弥陀の悲願に遇うことができたということは、ただそれだけのことではなく、その人自身のありように変化が起こったということです。善導の「前念に命終して、後念に即生す(前念命終、後念即生)」もその意味に受けとることができます。悲願に遇うことにより、これまでの古い生が終わり、新しい生がはじまったというように。そしてこの新しい生においては、弥陀の悲願を自分の願として感じられるようになります。

弥陀の悲願に遇うことができますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」と感じられるようになりますが、「わたしのいのち」としては悲願にたすけられつつ、同時に「ほとけのいのち」としては悲願をわが願いとして担うようになるのです。その二つが二つにして一つです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

往相の回向ととくことは [親鸞の和讃に親しむ(その52)]

(2)往相の回向ととくことは

往相の回向ととくことは 弥陀の方便とき(時)いたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり(第35首)

往相回向ということは、弥陀の手立てがととのって、悲願の信行あたえられ、生死すなわち涅槃なり

前首で如来の回向に往相と還相があると言われたのを受けて、ここでまず往相回向について詠われます。「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば」とは、弥陀の方便の「とき」が熟して、本願を信じ念仏申すことができるようになった、ということです。すなわち信も行もみな弥陀の回向であるということですが、ここで注目したいのは、その回向には方便を要し、そしてその方便が功を奏するには「とき」が必要であるということです。その「とき」がやってきて、はじめてわれらに信と行が回向されるということ、ここに思いを潜めたい。

弥陀の本願と名号は漏れなく一切の衆生に与えられているはずですから、一切の衆生がみな信行を得てしかるべきであるのに、「弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」(「正信偈」)と言われるのはどういうわけか。その疑問に対する答えがここにあります。弥陀は本願と名号を一切の衆生に届けるべく、さまざまな方便を凝らしてくださっているに違いありませんが、如何せん、その方便が功を奏するには、人によって長い短いの相違はあれ、時間がかかるのです。

思えばぼくが親鸞の思想に初めて触れたのは高校生のときでした。「倫理社会」の課題本として与えられた『歎異抄』を読み、よく分かならないながらも、「ここには何かがあるぞ」という感覚はありました。爾来、あのときの感覚は何だったのだろうと、濃淡はあるものの、親鸞はいつも心のどこかにありました。そのようにしてぼくの心は次第に弥陀の本願を受け入れるべく育てられていったのだろうと思われます。思えば長い道のりを歩んできたものですが、かように「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむ」ことになると言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

弥陀の回向成就して [親鸞の和讃に親しむ(その51)]

第6回 高僧和讃(2)

(1)弥陀の回向成就して(曇鸞讃のつづき)

弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(第34首)

弥陀の回向にふたつあり、一に往相、二に還相。弥陀の回向があってこそ、信行ともにあたえらる

ここには大事なことが二つ詠われています。一つは、回向はすべて如来からということ、もう一つは、如来の回向に往相と還相があるということです。まず一つ目。回向ということばはそのなかに多くの意味を含んでいますが、もとは「善きものを他にふり向ける」ということで、たとえば「死者に回向する」というのは、さまざまな善きものを死者にさし向ける(手向ける)ということです。この例のように、回向ということばはわれらがすることとしてつかわれてきましたが、親鸞はその方向を180度転回して、回向はすべて如来からやってくると言うのです。つまり善きものが如来からわれらにさし向けられるのだと。善きものの最大のものは救いですが、救いはわれらが自身でそれを自分に与えるのではなく、如来から与えられるということです。われらが救いをつかみとるのではなく、救いがわれらをつかみとるのです。

二つ目。如来の回向(たまもの)に往相と還相があるということです。往相回向は「わたし自身が救われる」ことで、還相回向は「他の衆生を救う」ことです。われらが回向するのでしたら(自力回向でしたら)、まず「わたし自身を救い」(自利です)、しかる後に「他の衆生を救う」(利他です)というように、二つは分かれざるをえませんが、往相も還相もどちらも如来の回向ですから(他力回向ですから)、その二つは二つにして一つであり、「わたし自身が救われる」ことがそのままで「他の衆生を救う」ことです。もっと正確に言いますと、「わたし自身が救われる」と気づくとき、それが同時に「他の衆生を救う」ことであると気づいています。自他の救いはひとつであると気づくのです。ただ、その気づきが「わたし」に起ったからといって、同時に他の衆生にも起るわけではありません。気づきは人それぞれに起るしかなく、気づいた人にとっては自他の救いはひとつですが、気づいていない人には自他の救いなどどこにもありません。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

天親菩薩のみことをも [親鸞の和讃に親しむ(その50)]

(10)天親菩薩のみことをも

天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし(第31首)

『論註』なくば天親の、『論』に説かれる広大な、他力の信と行ともに、どのようにしてさとらりょか

天親の『浄土論』を読みますと、菩薩(われら行者)は五つの行(五念門、すなわち礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門・回向門)を修めることにより、五つの功徳(五功徳門、すなわち近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門)を得て往生することができ、菩提を得ることができると説いてあります。これは実に常識的で分かりやすい自力の構図と言えますが、曇鸞はこの『浄土論』を注釈した『浄土論註』の土壇場において、天親の構図の天地をひっくり返してしまうのです。

曇鸞は「どうして五念門を修することにより、すみやかに菩提を得ることができるだろうか」とみづから問い、天親は「われらが五念門を修めることにより自利と利他の行を成就するからだ」と言われているが、実を言えば(「まことにその本を求むれば-(かく)()()(ほん)」)それは弥陀の本願他力によるのだと答えるのです。阿弥陀仏が四十八願を立て、それを成就してくださったことによってこそ、われらはすみやかに往生を得、菩提に至ることができるのだと。われらが五つの行を修め、その結果として五つの功徳を得ることができるかのように見えて、実のところ、その因も果もみな本願他力のなせるわざであるということです。

このことを親鸞は「正信偈」の曇鸞讃で「往還の回向(自利と利他の行)は他力による」と詠っています。そして「正定の因はただ信心なり」とつづけますのは、その本願他力に気づくこと(これが信心です)こそ往生の因であるという意味です。往生の因も果もみな本願他力によるのですが、しかしそれに気づかないことには本願他力はどこにもありません。われらが救い(往生)をつかみとることはできません、救いがわれらをつかみとるのです。われらはそれに気づく(信心する)ことができるだけです。

(第5回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問