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すでに往生していると気づく [『教行信証』精読(その160)]

(7)すでに往生していると気づく

 さて、まだ願船に乗っていなかった人が、あるとき願船に乗せていただくことになったとしますと、それは時間の中のある一点ですから、当然それがいつのことかが問題となります。それは「信心をえたそのとき」であるのか、それとも「命終らんとする時」であるのか。しかし、もうずっと前から願船に乗せてもらっているのに、それに気づいていなかったが、あるときふとそれに気づくとしますと、願船に乗っていることは「もうすでに」であり、「信心をえたそのとき」でも「命終らんとする時」でもありません。ただ、それに気づくのは時間の中のある一点であり、それが「信心をえたとき」に他なりません。
 ところで、浄土真宗の伝統的な教学では往生に二つあると言われます。一つは即得往生で、もう一つは難思議往生。即得往生とは「信心をえたそのとき」往生が約束され正定聚となることを意味し、難思議往生とは実際に浄土へ往生することで、これは「命終らんとする時」とされます。このようなかたちで願船に乗せてもらうのが「信心をえたそのとき」であるのか、「命終らんとする時」であるのかという厄介な問いに答えているのです。もう言うまでもないでしょう、これは「あるとき願船に乗せていただく」という前提に立っています。
 しかし「もうすでに願船に乗せてもらっていることにあるとき気づく」としますと、話はまったく違ってきます。
 その場合、往生そのものは「信心をえたそのとき」でも「いのちおはらんとするとき」でもなく、もうとうの昔から往生しているのです。ただ、これまではそれにまったく気づいていなかったが、いまそのことに気づいた。それが信心をえるということです。そして往生(願船に乗っていること)は、それに気づいてはじめてその姿を現しますから、その意味では、「信心をえたそのとき」に往生がはじまると言うことができます。経に即得往生とあるのはそのことで、正定聚とは(往生を約束された人ではなく)すでに往生していることに気づいた人のことを指します。
 往生が「信心のとき」であるのか、それとも「命終らんとする時」であるのかという論争はもはや意味がないと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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