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本願の気づき [『教行信証』精読2(その134)]

(8)本願の気づき

 本願の信とは、あらゆることは疑わしいが、そんなふうにあらゆることを疑うことができるのも本願他力の掌の上でのことであると気づくことです。本願他力のはたらきがあるからこそ、そのなかであらゆることを疑うことができると気づくこと、これが本願の信です。疑うこととは別に信じることがあるのではなく、疑うこと自身が信の上に成り立っているのです。先に、本願の信は「疑に対する信」ではなく、「疑をも包みこむ信」と言ったのはそういうことです。
 本願の信とは、本願の気づきに他なりません。ですから、本願については、それに気づいているか、まだ気づいていないかの違いがあるだけです。本願に気づきますと、まだ気づいていない人のことはよく分かります。自分もまた気づくまではそこにいたのですから。しかし、まだ気づいていない人は、本願に気づくということがどういうことかさっぱり見当がつかず、そもそも自分が本願に気づいていないとも思っていません。本願に気づいていないことは、気づいた後にはじめて了解できます、「あゝ、これまでは気づいていなかったのだ」と。
 で、本願に気づいた後に気づいていなかったこれまでを振り返りますと、「わたし」がすべてを采配し、これは信じるに足りるが、これは疑わしいと裁定を下していたことが見えてきます。これはしかしスピノザ流に言いますと、「われわれは善と判断するから(信じられると判断するから)、それを欲望するのではなく、それを欲望するから、善と判断する(信じられると判断する)」(『エチカ』)のです。そしてそのことを親鸞は「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)と言い放ちます。「わたし」が、これを信じ、これを疑うとしているのは、「みなもてそらごと、たわごと」にすぎないと。
 さてしかし、これらの「そらごと、たわごと」はみな本願他力の掌の上のことであり、「そらごと、たわごと」が「そらごと、たわごと」であるがままで、「まこと」であることに気づくのです。これが「ただ念仏のみぞまことにておはします」ということです。

タグ:親鸞を読む
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