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物語 [『阿弥陀経』精読(その7)]

(7)物語

 さあしかし、これを聞いたのは初心な子どもではありません、智慧第一の舎利弗です。釈迦は多くの弟子たちのなかでも智慧にかけては右に出るものがいない舎利弗に語りかけられたのです。「舎利弗よ、お前ならばわたしがこれから語ろうとしていることを間違いなく受け止めてくれるだろう」という信頼があったに違いありません。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり」という出だしから、これから語るのはひとつの物語であり、それを通して真実を伝えようとしているのだということを分かってくれよという思いが滲み出ています。
 真実を伝える方法に二つあります。ひとつはそれを「事実として語る」ことで、もうひとつはそれを「物語として語る」ことです。
 「願い」を語ることを考えてみましょう。われらの願いは雑多であり、人によってもさまざまですが、それらとは別にただひとつの「真実の願い」があるのではないでしょうか。ある人にはその人の願いがあり、別の人にはまたその人の願いがあって、それはしばしばぶつかります。あるマラソン選手は次のレースで優勝したいと願い、別の選手もまた優勝を願うでしょうから、これはあからさまにぶつかります。そんな具合に、それぞれの人に「わたしの願い」があって、それがしばしばぶつかり合うとしますと、それぞれの「わたしの願い」とは別にただひとつの「真実の願い」なんてあるのだろうかと思います。
 しかし「一人も漏れることなくみんなが安心して仲良く生きたい」という願いこそわれらの「真実の願い」ではないでしょうか。大乗仏教は「みんなが救われてはじめて自分の救いもある」という立場ですから、「自分の救い」よりも「一切衆生の救い」が「真実の願い」であり、法蔵菩薩の「若不生者、不取正覚(もし生れずば、正覚を取らじ)」という願いこそ「真実の願い」ということになります。さてその「真実の願い」を語ろうとするとき、それを「事実として語る」方法と、「物語として語る」方法があるのではないかということです。
 「われらのなかに真実の願いがある」という語り方と、「阿弥陀仏の本願が真実の願いである」という語り方です。

タグ:親鸞を読む
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