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往生また定まる [『歎異抄』ふたたび(その20)]

(10)往生また定まる

 何かが「定まる」という事態について少し考えてみましょう。たとえば結婚が定まる場合。この言い方では、ある人と結婚することに定まっただけで、まだ結婚はしていません。しかし、結婚が定まりますと、もういろいろなことで動き出さなければなりません。住むべき家をどうするかを決めなければなりませんし、結婚式を挙げるかどうか、挙げるとすればどこでどのような形にするかを考えなければなりません。そうした現実的なあれやこれやで忙しい日々を送ることになりますし、それより何より、二人でどのような生活を築いていくかについて楽しい語らいをすることでしょう。このように考えてきますと、結婚が定まるとは、実際上はもう結婚がはじまることではないでしょうか。
 往生が定まるという場合も、その時点でもう往生がはじまるということです。
 結婚というのは言うまでもなく点ではなく線です。あるときはじまるという意味では点ですが、それからずっとつづくのですから線です。同じように往生も点ではなく線です。あるときはじまり、それからずっとつづいていきます。ところがわれらはともすると往生を点のようにイメージしているのではないでしょうか。このイメージも『観経』からもたらされたものに違いありません。「阿弥陀仏は、大光明を放ちて行者の身を照らし、もろもろの菩薩とともに手を授けて迎接(こうしょう)したまふ。観世音・大勢至は、無数の菩薩とともに行者を讃歎して、その心を勧進したまふ。行者見をはりて歓喜踊躍し、みづからその身を見れば、金剛の台(うてな)に乗ぜり。仏の後(しりえ)に随従して、弾指(だんし)のあひだのごとくに、かの国に往生す」。
 これを見ますと、往生は「弾指のあひだのごとく」に終わります。こちらからむこうへ瞬間的に移動するというイメージで、ぼくはこれをテレポーテーション的往生とよびたいと思います。一方、大経的往生は「旅としての往生」です。信心の定まるとき、この旅ははじまり、命終わらんとするときまでつづく長旅です。では、命終わった後は?清沢満之に倣い、こればかりは「私はマダ実験しないことであるから、此処に陳(のぶ)ることは出来ぬ」(「わが信念」)と言わざるをえません。命終わった後、ひょっとしたら地獄に堕ちるのかもしれません。しかしそれでも「さらに後悔すべからず」(『歎異抄』第2章)です。なぜなら「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(同)ですから。

タグ:親鸞を読む
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