SSブログ

ただ信心を要とす [『歎異抄』ふたたび(その21)]

(11)ただ信心を要とす

 ようやく最初の一文、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」が終わりました。本願を信じ、念仏申さんと思い立つこころが起こったそのとき、往生の旅がはじまるということです。「本願を信じて、念仏をすることにより、往生できる」というのではありません。「本願を信じることが念仏することであり、それがそのまま往生することだ」というのです。「信心イコール念仏イコール往生」ということです。
 ここから次に「弥陀の誓願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」と述べられます。この文は信心し念仏し往生することは人を選ばないということです。ここでは老少と善悪だけが上げられていますが、さらに賢愚や貧富などを加えることもできるでしょう。要するにどんな属性の人であろうと、「ただ信心」、「ただ念仏」で往生するというのです。そしてその理由として弥陀の本願は「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」であるからと言われます。ここには考えるべき大事なことが潜んでいます。
 本願は平等であり、人を選ばないということです。これはどういうことか。
 世間には差別があふれています。「平等でなければならない、差別があってはならない」と叫ばれれば叫ばれるほど、世の中は実際のところ平等ではなく差別に満ち満ちていることが明らかになります。そもそも人は誰ひとりとして同じではなく、どこか違っています。そしてその違いはただ違っているだけでは済まず、そこにさまざまな基準で序列がつけられます。見まわしてみますと、どこもかしこもランキングばかりで、なぜこうもランキングが好きなのかとため息がでるほどです。他人事ではありません、ぼく自身がいたるところにランキングをつけながらものごとを見ています。これはもうわれらの生きる根源に関わることのようです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。