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第2通の後段 [「『おふみ』を読む」その18]

(5)第2通の後段

『和讃』にいはく、「弥陀の報土をねがふひと ()()のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐(ごび)にわするることなかれ」といり。「外儀のすがた」といは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といは、かたちはいかようなりといとも、または十悪・五逆・謗法(ほうぼう)闡提(せんだい)のともがらなれども、回心(えしん)懺悔(さんげ)して、ふかく、かかるあさましき機をすくまします阿弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいなり。さてこのうには、たと行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じうす念仏なりとおもべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

あつき日にながせるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞおかしき

文明三年七月十八日

(現代語訳) 『高僧和讃』の一首にこうあります、「弥陀の浄土をねがうひと どんなすがたをしてようと 南無阿弥陀仏うけとめて ねてもさめてもわすれるな」。「外儀のすがた」といいますのは、在家であろうが出家であろうが、男であろうが女であろうが関係なく、ということです。つぎに「本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といいますのは、どんな姿かたちであろうと、また十悪・五逆・謗法・闡提のつみびとであろうと、そのこころを翻して懺悔し、ふかく、こんなあさましい自分を救ってくださる阿弥陀如来の本願よと頷いて、ふたごころなく如来をたのむこころをねてもさめても忘れないなら、そういう人を本願をたのむ心の決定した信心の行人というのです。さて、この信心が決定したうえは、たとえ行住坐臥に念仏するとも、それは弥陀如来の御恩に報いる念仏であると思うべきです。そのような人を真実の信心をえ、往生が決定した行者というのです。謹言。

あつき日にながせるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞおかしき

 文明三年七月十八日


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