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絶対不二 [『教行信証』精読2(その130)]

(4)絶対不二

 念仏と諸善について四十七にわたって比較対照されますが、その一々に立ち止まる必要はないでしょう、すでにさまざまな経・論・釈において論及されてきたことがここでまとめられているだけですから。ここで考えたいのは、それらの比較対照と、最後の一文「しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり」との関係です。この「しかるに」をどう理解するか。どの解釈を見ても、これを逆接に取るものはなく、前の対比を受け、それらを総括することばと解しています。しかし親鸞にはもっと強い思いがあったのではないでしょうか。「この義かくのごとし」と締めくくり、その後に「しかるに」とくるのですから、それをただの総括と受け取ることはできません。
 他と比較対照するということは、念仏を「相対」的にみるということですが、最後の一文は念仏を「絶対」不二と言っています。ここにはとても大事なことが潜んでいます。
 ここに上げられている比較対照は、つまるところ「自力対他力」におさまると言っていいでしょう。難と易の対は、自力であるがゆえに難であり、他力であるがゆえに易であるということで、頓と漸の対も、他力であるがゆえに頓で、自力であるがゆえに漸であるといった具合に、念仏以外の教えはみな自力の立場にあるのに対して、念仏の教えは他力であるということです。曇鸞がこれを明らかにして以来、浄土門は他力門であることを標榜してきました。これは違いをはっきりさせる上で極めて有効であることは間違いありませんが、ただ、ここにはうっかり落とし穴にはまってしまう危険があることを忘れないようにしたいと思うのです。
 「自力対他力」と言われますと、その他力は自力に対する他力、つまりこちらに自力の世界があるのに対して、あちらに他力の世界があるというように二元的に受けとめられる危険があるということです。本願他力というときの他力は、そのような自力に対する他力のことではなく、自力をも包摂する他力です。絶対不二というのはそういう意味です。さてしかし、他力は自力も包摂すると言い、だから絶対であるとは言うものの、それでは自力というのはそう見えるだけで実は幻にすぎないのかといいますと、とんでもありません、自力は紛れもない事実です。

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本文2 [『教行信証』精読2(その129)]

(3)本文2

 念仏と諸善とが、その教えとそれを受ける機とのそれぞれについて比較されます。まずは教えについて。

 しかるに教について、念仏諸善比校(ひきょう)対論するに、難易対、頓漸対、横竪(おうじゅ)対、超渉(ちょうしょう)対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠(ごんおん)対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑(じゅんぞう)対、径迂(きょうう)対、捷遅(しょうち)対、通別対、不退退対、直弁因明(じきべんいんみょう)対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪(きかんふかん)対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂(しょうふしょう)対、入定聚不入対、報化対あり。この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

 (現代語訳) 念仏の教えと諸善万行の教えとを対比してみますと、易に対するに難、頓に対するに漸、横(よこさまに)に対するに竪(たてさま)、超(とびこえる)に対するに渉(わたる)、順(仏願に順う)に対するに逆、大(大きい功徳)に対するに小、多(功徳が多い)に対するに少、勝(すぐれた行)に対するに劣、親(仏に親しい)に対するに疎、近(仏に近い)に対するに遠、深に対するに浅、強に対するに弱、重に対するに軽、広(広く救う)に対するに狭、純に対するに雑、径(近道)に対するに迂(迂回路)、捷(はやい)に対するに遅、別(特別)に対するに通(普通)、不退(不退転に至る)に対するに退(退転する)、直弁(直接に説かれた)に対するに因明(添えて説かれた)、名号に対するに定散、理尽(道理を尽くしている)に対するに非理尽、勧(諸仏が勧められる)に対するに無勧、無間(間断のない)に対するに間、不断(断絶しない)に対するに断、相続に対するに不続、無上(この上ない)に対するに有上、上上に対するに下下、不思議(思いも及ばない)に対するに思、果徳(仏の徳)に対するに因行(われらの行)、自説(仏が自ら説かれた)に対するに他説、不回向(われらが回向するのではない)に対するに回、護(仏に護られる)に対するに不護、証(諸仏から証明される)に対するに不証、讃(諸仏に讃嘆される)に対するに不讃、付属(後世に託された)に対するに不属、了(仏の真意が明らかに説かれた)に対するに不了教、機堪(どんな人にも堪えられる)に対するに不堪、選(選び抜かれた)に対するに不選、真に対するに仮(方便)、不滅(不滅の仏)に対するに仏滅、法滅利(法滅のときにも利がある)に対するに不利、他力に対するに自力、有願(本願の教え)に対するに無願、摂(摂取不捨)に対するに不摂、入定聚(正定聚となる)に対するに不入、報(報土に入る)に対するに化(化土に入る)となります。とは言うものの、本願の一乗海を考えてみますに、この教えにはあらゆる功徳が円かに具わり、何ものにも妨げられることなくすみやかに悟りに至れる絶対不二の教えです。

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頓教 [『教行信証』精読2(その128)]

(2)頓教

 このすぐ後に念仏と諸善との比較がなされ、その中に念仏は頓教であるのに対して、諸善は漸教であるという対比がでてきますが、先回りしてこの点について少し考えておきましょう。
 親鸞にとって本願念仏の教えが頓教であるというのは、本願の信をえたそのときに(本願に遇ったそのときに)、「すなはち往生をえ、不退転に住す(即得往生、住不退転)」(第18願成就文)ということです。親鸞独特の言い回しでは、それは「信楽開発の時剋の極促」(信巻)で、その一瞬に世界は一変します。これは、本願には「多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがた」(序)いにもかかわらず、その本願に「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」という感動を如実に伝えてくれます。この「いま救われる」という点に親鸞浄土教のエッセンスがあることは間違いありません。
 ただ、この印象があまりに強いがために、生きることのすべてがこの一瞬に凝縮されてしまい、その後につづく時間の影が薄くなってしまいがちです。なにか「信楽開発の時剋の極促」で時間がフリーズしたかのように感じられるのですが、言うまでもなく、その後も時間は淡々と過ぎていきます。信はたしかに瞬間の出来事ですが、しかしその一瞬で信が終わるわけではありません。それは始まりにすぎず、信はその後ずっと継続されるのです。その後につづく信の生活(正定聚としての生活)こそ大事なのに、それがなんだか付録のような扱いをされることが多いのではないでしょうか。
 このことは還相の問題と直結しています。まず往相がありしかる後に還相があるというように両者を切り離すのではなく、往相がそのまま還相であるととらえてはじめて正定聚としての生活に内実を与えることができます。正定聚とは往生の旅のなかにある人であり、もちろん往相にありますが、同時にそれは還相でもあります。善導の「自信教人信(自ら信じ、人を教えて信ぜしむ)」で言いますと、自信が往相、教人信が還相です。自信ののちに教人信があるのではなく、自信がそのまま教人信であるということであり、そしてさらにひと言すれば、教人信は広く利他(曇鸞に言わせれば他利ですが)のはたらきと受け取るべきでしょう。

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本文1 [『教行信証』精読2(その127)]

         第8回 円融満足極速無碍絶対不二の教なり

(1)本文1

 一乗海について、曇鸞の文につづいて、善導と宗暁(しゅうぎょう)の文が引用されます。

 光明師(善導)のいはく、「われ菩薩蔵(小乗の声聞蔵に対して、大乗の教えを収めた蔵)頓教(とんぎょう、漸教‐ぜんぎょう‐に対して、すみやかに証を得る教え)一乗海による」と。
 またいはく、「『瓔珞経(ようらくきょう)』のなかには漸教を説けり。万劫に功を修して不退を証す。『観経』・『弥陀経』等の説は、すなはちこれ頓教なり、菩提蔵(菩薩蔵)なり」と。以上
 『楽邦文類』にいはく、「宗暁禅師のいはく、還丹(かんたん、錬金術に用いる薬)の一粒は鉄(くろがね)を変じて金(こがね)と成す。真理の一言は悪業を転じて善業と成す」と。以上

 注 南宋の宗暁が編集した楽邦(浄土)に関する要文集。宗暁は親鸞とほぼ同世代の人であり、親鸞は中国の最新の書物にも目を通していたことが分かる。

 (現代語訳) 善導大士は『観経疏』「玄義分」においてこう言われます。わたしは大乗の教えに帰依し、すみやかに証を得ることのできる教えに帰依し、すべての人が分け隔てなく乗ることのできる誓願一仏乗に帰依します、と。
 また『般舟讃』ではこうも言われます。瓔珞経には一歩一歩悟りをめざす教えが説かれていて、その教えでは、限りない修行の末に不退の位に至ることができます。しかし観経や阿弥陀経などにはすみやかに悟りに至る大乗の教えが説かれています、と。
 『楽邦文類』において宗暁禅師がこう言われます。還丹はたった一粒で鉄を黄金に変えてしまいますが、そのように名号という真理の一言は、悪業をたちまち善業へと変えてしまいます、と。

 ここでは誓願一乗海の教えは頓教であることが述べられていますが、なかでも宗暁の「真理の一言は、悪業を転じて善業となす」が印象的です。

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本願力とは名号 [『教行信証』精読2(その126)]

(19)本願力とは名号

 願いは、ただ漠然とそうあってほしいと思うだけでしたら、いわば中空にただよっていますが、本気でそう願う場合は、それが力となって願う相手に向かっていきます。力は通常ベクトルとして表現されますが、ベクトルの特徴は方向をもつことで、だから矢印で表されます。その矢印は願うものから願われているものへと一直線に向かいます。さて、願いがベクトルとなって相手に向かうとき、「たより」というかたちをとるのが普通でしょう。誰かに幸せになってほしいとこころから願うとき、その思いを「たより」にしたため相手に送り届けます。
 名号こそ本願が送り届けられる「たより」です。
 経に「聞其名号(その名号をききて)」(第18願成就文)とありますのは「たより」がわれらに届いたということですが、そのとき何が起こるか。われらの普通の「たより」を考えてみましょう。あるとき懐かしい人から思いもかけない「たより」が届き、何だろうと開封してみますと、「あなたが幸せになることは、わたしの幸せです」と書いてあります。そのときわれらのこころに何が起こるか。どんな不幸の中にあっても、この「たより」が届いただけで周りの景色がこれまでと大きく変わるのではないでしょうか。これまでは「どうして自分がこんな不幸な目にあわなければならないのか」という嘆きの海に沈んでいましたが、その海がそのままで功徳の大宝海に一変する。
 これが「遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」ということです。
 さてここで繰り返し言っておかなければならないのは、本願力に遇ったからといって文字通り煩悩の氷が解けて菩提の水になるわけではないということです。むしろ煩悩がはじめて煩悩になるのです。それまでは煩いでも悩みでもなかったことが、本願力に遇うことで、われらの煩いのもとであり悩みのたねであることが明らかになるのです。しかし驚くべきことに、煩悩の氷を煩悩の氷とはっきり気づくことが、それがそのままで菩提の水であると気づくことでもあるのです。煩悩の氷とは別に、どこかに菩提の水があるわけではないのです。

                (第7回 完)

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本願力 [『教行信証』精読2(その125)]

(18)本願力

 『論註』から海に関係する文が二つ引用されていますが、一つ目は阿弥陀仏の功徳が八つ上げられる中の最後の不虚作住持功徳についての文で(下巻にあります)、二つ目は浄土論の「天人不動の衆、清浄の智海より生ず」という偈を注釈する文です(上巻にあります)。二つ目の文については、大経の文との関連で検討しましたので、ここでは一つ目の文に着目しましょう。とは言うものの、浄土論の「仏の本願力をみそなはすに、まうあふてむなしくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」という文はすでに一度引用されていますので、その箇所でこの文の意味するところを考えました。ここでは別の角度から迫りたいと思います。
 本願力に遇うことで、かならずや煩悩の氷が解けて功徳の大宝海水となるということですが、天親は本願に遇うとは言わず、本願力に遇うと言います。曇鸞はそれに敏感に反応して、その違いを「もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力」と注釈してくれます。もとは法蔵菩薩の本願だが、それはおのずから阿弥陀仏の本願力となるということで、それを「願もて力を成ず、力もて願につく」と表現します。願は因として、かならず力という果となり、逆に、力が力としてはたらくことができるのは、その因として願があるからだということです。それをさらに「願、徒然ならず、力、虚設ならず。力、願あひかなふて畢竟してたがはず」と解説してくれます。
 さてしかし「願もて力を成ず」とはどういうことでしょう。本願は本願のままでいることができず、おのずから本願力となるということですが、それをどう理解すればいいでしょう。本願は、それがかりそめのものではなく正真正銘ならば、かならず相手に届く力をもつものであるということです。われらのもつ願いも、それが誰かに向けられたものである場合(誰かに幸せになってほしいと願う場合)、もしそれが本気であるならば、それはただ自分のこころの中にあるだけではなく、おのずから相手に届く力をもつことでしょう。願いは確かにこころの中に生まれますが、それがほんものであれば、こころの中にとどまることなく、相手に向かっていく力となります。もしそうでないなら、それは本気で願っていないということです。

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本文6 [『教行信証』精読2(その124)]

(17)本文6

 次に『論註』から二つの文が引用されます。

 『浄土論』(『浄土論註』のこと)にいはく、「なにものか荘厳不虚作住持功徳(しょうごんふこさじゅうじくどく、阿弥陀仏が念仏の人をしっかりとたもち、かならず涅槃へと導くはたらき)成就。偈に、仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむといへるがゆゑにとのたまへり。不虚作住持功徳成就とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相(こさのそう、偽りの姿)の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義をあらはす。乃至 いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成(じょう)ず、力もつて願に就(つ)く。願、徒然(とねん、いたずらであること)ならず、力、虚設(こせつ)ならず。力願あひかなふて、畢竟(ひっきょう)じてたがはず。ゆゑに成就といふ」と。
 またいはく、「海とは、いふこころは、仏の一切種智(完全なさとりの智慧)深広にして涯(きし)なし。二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。これを海のごとしとたとふ。このゆゑに天人不動の衆、清浄の智海より生ずといへり。不動とは、いふこころは、かの天・人、大乗根(大乗に相応しい根性)を成就して傾動(きょうどう、フラフラする)すべからざるなり」と。以上

 (現代語訳) 浄土論註にこうあります。荘厳不虚作住持功徳成就とはどういうことでしょう。浄土論の偈に、阿弥陀仏の本願力は、それに遇うことができた人はこの世を虚しく過ごすことはなく、すみやかに功徳の宝海に満たされるのです、と言われていますが、このように迷いの世を虚しく過ごさせない不虚作住持功徳が成就しますのは、思うに、阿弥陀如来の本願力によるものです。いま少しく、虚作の相であれば住持することができないことをしめして、不虚作住持ということを明らかにしてみましょう。(中略)いま言いますところの不虚作住持というはたらきは、因位の法蔵菩薩の四十八願と、果位の阿弥陀如来の自在な神力とによるものです。願が力の因となり、力は願の果ですから、願がいたずらごとでないがゆえに、力も虚しいものではありません。力と願があいかない、違うことはありませんから、成就されるというのです。
 またこうもあります。海といいますのは、仏のあらゆるものの実相を悟った智慧は深くて広く果てがありません。ですから、そこには声聞や縁覚のまがいものの善の入る余地はありません。これを海のようであると言われるのです。こんなわけで、浄土論には浄土に往生する不動の人びとはみな清浄な本願の智慧海から生まれると言われているのです。不動といいますのは、浄土に往生する人びとは大乗の根本を成就していますから、どんなことにもふらふらしないということです。

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死なんずるやらん [『教行信証』精読2(その123)]

(16)死なんずるやらん

 分別しながら、これは分別だと自覚することで、それに囚われなくなると言いましたが、それをこう言いかえることができます。無分別智に出あいますと、無分別智のなかに包みこまれながら(許されながら)分別しているのだと思えるようになると。分別知と無分別智は二でありながら同時に一であるということです。それは「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」とが二でありながら同時に一であることに由来します。「わたしのいのち」は分別せざるをえないいのちでありながら、そのままで無分別の「ほとけのいのち」とひとつなのです。
 話を具体化したいと思います。ぼくは高血圧と不整脈をかかえて医者通いしながら毎日欠かさず薬を飲んでいますが、ときどき血圧が異常を示すことがあります(朝晩、血圧を測定しグラフにつけています)。そうしますと、途端にこころが平静を失い、本を読んでいても集中できなくなります。親鸞の述懐のように、「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第9章)のです。そんなとき、ぼくは生と死を分別し、生にしがみつき死を忌み嫌っていることを痛感します。
 無分別智に出あうことができますと、生にしがみつき死を忌み嫌うのは人間として当たり前のことではなく、われらの分別がもたらす執着であることに思い至ります。無分別智からしますと、生と死は一体であり、生のない死はなく、死のない生もありません。その無分別智から「生きることは取りも直さず死ぬことであり、死ぬからこそ生きることができるのだ」という声がして、「そうか、ぼくは生と死を分別して、生を選び、死を遠ざけようとしているのか」と痛感させられるのです。
 しかし、そう痛感したからといって、「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」こころが消えるわけではありません。これまで同様、熱心に医者通いをして、何とかして血圧が下がることを祈念せざるをえません。でも、同時に思うのです、このように「わたしのいのち」が性懲りもなく分別して不安に駆られているのも、「ほとけのいのち」のなかに摂取されているからこそのことなのだと。そこから「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしくをはるときに、かの土へはまいるべきなり」(同)という親鸞のしみじみとしたことばが出てくるのではないでしょうか。

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分別知と無分別智 [『教行信証』精読2(その122)]

(15)分別知と無分別智

 本願の智慧の海は「深広にして涯底なし」ですから、声聞や縁覚、さらには菩薩の「はかるところにあらず」で、「ただ仏のみひとりあきらかにさとり」たまうというのですが、これは何を意味するかといいますと、これまた分別知と無分別智の違いに関わります。われらの知は、たとえ声聞や縁覚の知としても、さらには菩薩の知としても、しょせん分別知であるということ。ところが本願の智慧は無分別智ですから、われらの「はかるところにあらず」で、「ただ仏のみひとりあきらかにさとり」たまうのです。
 分別知とはあらゆるものを「これ」と「あれ」に分ける知です。「わたし」と「あなた」、善と悪、生と死など、あらゆるものを分別し、そして「あなた」よりも「わたし」、悪よりも善、死よりも生を選り好みする知です。これはそうするのがいいとか悪いということではなく、あるいは、どれほどすぐれた知識人であろうと一文不知の尼入道であろうと関わりなく、われらがものごとを見ようとするときにはそうせざるをえないことなのです。そうしないとものごとが見えないという意味では、われらが生まれつきかけている眼鏡のようなものと言えるでしょう。
 それに対して無分別智とは「わたし」と「あなた」を包み込み、善と悪の対立を飲みこみ、さらには生と死をひとつにしてしまう智慧です。それは「ただ仏のみひとりあきらかにさとり」たまう智慧で、われらの「はかるところにあらず」ですが、ただ、われらが本願の海に帰入しますと、その存在に気づかせてもらえるのです。本願の海に帰入するとは「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」に他ならないと気づくことですが、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」であることに気づくということは、その智慧である無分別智に包みこまれるということです。
 ただ、無分別智に包まれるとはいえ、もとからの分別知が消えてなくなるわけではありません。消えるどころか、むしろ分別知がはじめて分別知となるのです。無分別智に気づくまでは、われらの知が分別知であるという自覚もなく、知るということについて無反省でしたが、無分別智に出あうことにより、「われらの知は分別知なのだ」と思い至るのです。そしてそれまでと変わることなく分別しながら、しかしこれは分別であると自覚することで、それに囚われることがなくなります。

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本文5 [『教行信証』精読2(その121)]

(14)本文5

 次に無量寿経から引かれます。

 ゆゑに『大本』(無量寿経のこと)にのたまはく、「声聞あるいは菩薩、よく聖心(しょうしん、仏のこころ)をきはむることなし。たとへば生れてより盲ひたるものの、行(ゆ)いて人を開導せんとおもはんがごとし。如来の智慧海は、深広(じんこう)にして涯底(がいてい)なし。二乗(声聞と縁覚だが、ここでは前後から声聞と菩薩ととるべきか)の測るところにあらず。ただ仏のみひとりあきらかにさとりたまへり」と。以上

 (現代語訳) ですから無量寿経にはこうあります。声聞や菩薩は仏のおこころをよくおしはかることはできません。たとえば生まれつき目の見えないものが、人を導こうとするようなものです。弥陀の智慧の海は深く広く底知れませんから、声聞や菩薩のおしはかるところではありません。ただ仏のみがひとり明らかに悟ることができるのです。

 大経のこの文(往覲偈‐おうごんげ‐の中にあります)がここで引かれたのは「如来智慧海、深広にして涯底なし」と海が出てくるからには違いありませんが、その関連がにわかには了解できないかもしれません。ところが、このすぐ後に『論註』から「海といふこころは、仏の一切種智、深広にして涯(はて)もなし。二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。これを海のごとしとたとふ」という文が引かれ、それが先の「願海は二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸をやどさんや」のもとになっていることが分かりますと、一連のつながりが見えてきます。すなわち、この大経の文、「如来智慧海、深広にして涯底なし。二乗のはかるところにあらず」をもとに、曇鸞が「仏の一切種智、深広にして涯もなし。二乗雑善の中下の屍骸をやどさず」と言い、そしてこの『論註』の文をもとにして、親鸞が「願海は二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸をやどさんや」と言っているのです。

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