SSブログ

本文1 [『教行信証』精読2(その140)]

         第9回 本願の名号は正定の業なり(正信偈1)

(1)本文1

 行巻の巻末に正信念仏偈、略して正信偈が置かれます。まずはその序文です。

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信の願は、至心信楽の願なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。
 ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静(どうじょう)おのれにあらず(自分勝手なふるまいをしない)、出没(しゅつもつ、出入り)かならず由(ゆえ)あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓す(申し上げる)べし。また所願軽からず、もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加(こつか)す、このゆへに仰いで告ぐ」とのたまへり。以上
 しかれば大聖(釈迦)の真言(釈迦の教説)に帰し、大祖(七高僧)の解釈(げしゃく)を閲して、仏恩の深遠(じんのん)なるを信知して、「正信念仏偈」をつくりていはく、

 (現代語訳) さて誓願には真実の行・信の願と、方便の行・信の願があります。真実の行の願が、第17願の諸仏称名の願で、真実の信の願が、第18願の至心信楽の願です。これが選択本願の行・信です。それにより救われるのは一切の善人・悪人であり、大乗・小乗にかかわりなく、すべての愚かな凡夫です。そしてその往生は思いはかることができないということから難思議往生とよばれ、その仏は報仏、土は報土です。これがわれらの思いはかることのできない真実一如の本願海です。無量寿経の教えであり、他力真実の教えです。
 そこでその恩を思い、その徳に報いるために曇鸞大師の論註をひもときますと、こうあります。菩薩が仏に帰依するのは、孝行者が父母にしたがい、忠臣が王侯にしたがって、自分勝手に振る舞わず、出処進退もその意にしたがうようなものです。恩を思い、徳に報じようとするとき、まずその思いを啓白するべきですし、またその願いは軽いものではありませんから、如来がそのお力を貸して下さらなければ、どうして成就することができましょう。ですから天親菩薩は如来のお力を乞うて「世尊、われ一心に」と言われたのです、と。
 かくして私は釈迦如来の真実のことばにしたがい、高僧たちの注釈に頼りながら、仏のご恩の深く遥かなるを信じて、正信念仏偈を作りたいと思います。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文6 [『教行信証』精読2(その139)]

(13)本文6

 本願一乗海を讃嘆する段の結びです。

 よく三有(さんぬ、三界と同じ。欲有・色有・無色有)繋縛(けばく)の城を出(いだ)して、よく二十五有(迷いの世界)の門を閉づ。よく真実報土を得しめ、よく邪正(じゃしょう)の道路を弁ず。よく愚痴海をかわかして、よく願海に流入せしむ。一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮ぶ。福智蔵(第18願の真実の教え)を円満して、方便蔵(福智蔵に入らせるための方便の教え)を開顕せしむ。まことに奉持(ぶじ)すべし、ことに頂戴すべきなり。

 (現代語訳) 誓願一仏乗は衆生を迷いの世界から救い出し、再び迷いの世界に戻らないようすべての門を閉ざしてくれます。そして真実の浄土へ往生させてくれます。正しい道と邪な道を弁別させ、本願を疑う愚痴の海を干上がらせ、本願の海へと導き入れてくれます。また完全な悟りの船に乗って、迷いの海に浮びます。福智蔵をまどかに満たすとともに方便蔵を開き人々を導きます。まことにこの教えを奉じるべきであり、謹んで頂戴しなければなりません。

 本願に遇うということは、愚痴の海から本願の海に流入するということですが、それがそのままで群生海に浮んで衆生を導くことにほかならないと述べられます。往相はそのまま還相であるということです。もし群生海と本願海が別々にあるのでしたら、まず群生海から本願海に往き(往相)、しかる後に再び群生海に戻ってくるということにならざるをえませんが(還相)、群生海は群生海のままで本願海です。だから往相は往相のままで還相となります。

                (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本願に遇えた慶びを嘆ずる [『教行信証』精読2(その138)]

(12)本願に遇えた慶びを嘆ずる

 本願に遇ったことのない人は、どれほど丁寧に本願のはたらきを説明されても、その素晴らしさを実感することはできないでしょう。
 本願はどういうものかを思い浮かべようとして思い浮かべることができるものではありません。何度も繰り返し言いますように、本願はふとそれに気づいてはじめてそこにあるものであり、気づきませんと、どこにも存在しません。まだ見たことはないが、どこかに存在するものについては、それについて「なほしかくのごとし」と丁寧に譬えてもらうことで、おぼろげながらもそれについての像を結ぶことができるでしょうが、それに気づいておらず、いや、気づいていないとも思っていないことについて、どれほど譬えを連ねられても、「われ関せず焉」でしかありません。
 さてしかし、そうとしますと、ここで親鸞が本願についての譬えを延々と連ねていることにどんな意味があるのでしょうか。
 答えはただひとつ、本願を讃嘆するということ、これです。親鸞は本願をさまざまに譬えることで、本願にまだ気づいていない人に対して、それが何であるかを伝えられると思っているわけではないでしょう。そうではなく、自分が本願に気づくことができたことを喜び、それがどれほど素晴らしい経験であるかを語っているだけです。序にこうありました、「ここに愚禿釈の親鸞、…あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり。…ここをもてきくところをよろこび、うるところを嘆ずるなり」と。ここに教行信証という書物の性格がはっきり語られています。
 さて、親鸞は本願に遇えたことを慶び、それを讃嘆しているだけとしても、だからと言って、この書物が親鸞ひとりに閉じられているわけではありません。すでに本願に遇えた人は親鸞のことばに共感し、ともに慶ぶことができるのは言うまでもありませんし、まだ本願に遇えていない人も、なるほど親鸞のことばによって本願に遇えるわけではありませんが、何か未知のすばらしい世界があるらしいことを感じさせてもらうことはできます。思えば高校生のぼくが歎異抄をはじめて読んだとき、これは一体何だろう、ここにはぼくの知らない深い世界があるぞと思ったのもそれでした。そのとき本願に遇えたわけではありません。でも本願という未知の世界があることは感じさせてもらったのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文5 [『教行信証』精読2(その137)]

(11)本文5

 譬えの後半です。

 なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆゑに。なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。閻浮檀金(えんぶだんごん、閻浮樹の間を流れる河から採れる砂金)のごとし、一切有為の善を映奪(ようだつ)するがゆゑに。なほ伏蔵(地下に埋蔵されている宝)のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆゑに。なほ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆゑに。日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆゑに。なほ君王のごとし、一切上乗人(諸仏のこと)に勝出せるがゆゑに。なほ厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆゑに。なほ悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生(じょうしょう)するがゆゑに。なほ乳母(にゅうも)のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。なほ大地のごとし、よく一切の往生を持(たも)つがゆゑに。なほ大水のごとし、よく一切煩悩の垢をすすぐがゆゑに。なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。なほ大風のごとし、あまねく世間を行ぜしめて礙(さ)ふるところなきがゆゑに。

 (現代語訳) 本願はよい蜜のようです、一切の功徳の味をまどかに満たしているからです。正しい道のようです、あらゆる衆生を智慧の城に導いてくれるからです。磁石のようです、衆生を引き寄せるからです。閻浮檀金のようです、世間の善の光を奪ってしまうからです。地下に隠された宝庫のようです、一切諸仏の教えを包摂しているからです。大地のようです、すべての如来はそこから生まれ出てこられたからです。太陽の光のようです、一切衆生の愚痴の闇を破って信心を生じさせるからです。大王のようです、一切の諸仏を超えているからです。厳しい父のようです、すべての凡夫・聖者を教え導くからです。慈愛にあふれた母のようです、一切の凡夫・聖者を浄土へ生まれさせる因である信心を育むからです。乳母のようです、一切の往生人を養育し護ってくれるからです。大地のようです、一切の往生人を支えてくれるからです。大水のようです、一切の煩悩の垢を洗い流すからです。大火のようです、一切の邪見の薪を焼くからです。大風のようです、世界中に行き渡り、何ものにも遮られないからです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

譬えるということ [『教行信証』精読2(その136)]

(10)譬えるということ

 本願は不可説不可称不可思議ですから、それを譬えで言い表そうというわけです。これまでも引用文の中に本願について多くの譬えが持ち出されていましたが、ここでは28もの譬えが並べられます。しかしそれらの譬えの一々にはこだわることなく、教えを譬えによって説くということについて考えてみようと思います。そもそも譬えというのはどんなときに必要になるでしょう。それは、伝えようとすることを直接的に言いあらわす手立てがないときに、伝えたいことに多少とも似ていることを取り上げて、「なほしかくのごとし」と言うわけです。
 さて、伝える相手が、伝えようとすることをすでに多少とも知っているときには、譬えは共感してもらえるでしょうが、相手がそのことについてまったき未知であるときはどうでしょう。たとえば子どもに、その子がこれまでまだ見たことのない動物について語ろうとして、それに似た動物を上げるとしましょう、「お馬さんのようだよ」と。そうしますと子どもは、それを手がかりにその未知の動物を頭に思い浮かべることができます。こんな場合は、その子がその動物をこれまでまだ見たことがないとはいえ、それと姿かたちが似た動物は知っているわけで、だからこそ譬えが有効になるのです。
 さて問題は本願です。本願についてまったく未知の人に、それを譬えで伝えることができるでしょうか。
 ここで譬えとして上げられているのは、大虚空、大車、蓮華、善見薬王、利剣などですが、これらはみな眼で見えるものであり、みなよく知っているものです。そうしたものを上げて本願を頭に浮べてもらおうというのですが、言うまでもなく、姿かたちが似ているものを上げているわけではありません。そもそも本願に姿かたちはありません。では何が似ているのかといいますと、そのはたらきにおいて似たところがあるということです。大虚空はどんなものも包みこみ、大車はどんなものも乗せ運ぶことができるといった点で本願と似ているというのです。
 なるほど、そうしたはたらきがよく似ていることは、すでに本願に遇った人は、その通りだなと共感できますが、まだ遇ったことのない人はどうでしょう。そこから本願とはどういうものかを思い浮かべることができるでしょうか。つづきを読みながら考えましょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文4 [『教行信証』精読2(その135)]

(9)本文4

 念仏と諸善の比校対論のあと、本願一乗海がさまざまな譬えをもちいて讃嘆されます。

 敬つて一切往生人にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺、最勝深妙、不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに、誓願不可思議なるがゆゑに。悲願はたとへば大虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。なほ大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに。なほ妙蓮華のごとし、一切世間の法に染(ぜん)せられざるがゆゑに。善見薬王(ヒマラヤに産する薬樹)のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆゑに。なほ利剣のごとし、よく一切驕慢の鎧を断つがゆゑに。勇将幢(帝釈天が魔軍と戦うときに立てるはたぼこ)のごとし、よく一切のもろもろの魔軍を伏するがゆゑに。なほ利鋸(りこ)のごとし、よく一切無明の樹をきるがゆゑに。なほ利斧(りふ)のごとし、よく一切諸苦の枝をきるがゆゑに。善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆゑに。なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道(生死の迷いから出る道)を知らしむるがゆゑに。なほ湧泉のごとし、智慧の水を出して窮尽(ぐじん)することなきがゆゑに。なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢(ざいく)に染せられざるがゆゑに。なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆゑに。(本文5につづく)

 (現代語訳) 謹んですべての往生人たちに申上げます。本願一乗海は、何ものにも妨げられることはなく、ほとりもなく、この上なく深くて、ことばで言い表すことのできない不可思議な功徳に満ちています。なぜなら、不可思議な誓願によって成就されたからです。この誓願は大空のようです、もろもろの妙なる功徳が果てもなく広がっているからです。大いなる車のようです、例外なくすべての凡夫・聖者を乗せることができるからです。蓮華のようです、世の穢れに染まらないからです。善見薬王のようです、一切の煩悩の病を癒してくれるからです。よく切れる剣のようです、一切の驕慢の鎧を断ち切るからです。帝釈天の幢のようです、一切の魔軍をひれ伏させるからです。よく切れる鋸のようです、一切の無明の樹を切り倒すからです。よく切れる斧のようです、一切の苦しみの枝を払うからです。善知識のようです、一切の生死の絆をほどいてくれるからです。よき導き手のようです、凡夫が生死の迷いから脱出できる道を教えてくれるからです。湧き出る泉のようです、尽きない智慧の水を与えてくれるからです。蓮華のようです、一切の罪業に染まらないからです。疾風のようです、一切の罪障の霧を吹きはらってくれるからです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本願の気づき [『教行信証』精読2(その134)]

(8)本願の気づき

 本願の信とは、あらゆることは疑わしいが、そんなふうにあらゆることを疑うことができるのも本願他力の掌の上でのことであると気づくことです。本願他力のはたらきがあるからこそ、そのなかであらゆることを疑うことができると気づくこと、これが本願の信です。疑うこととは別に信じることがあるのではなく、疑うこと自身が信の上に成り立っているのです。先に、本願の信は「疑に対する信」ではなく、「疑をも包みこむ信」と言ったのはそういうことです。
 本願の信とは、本願の気づきに他なりません。ですから、本願については、それに気づいているか、まだ気づいていないかの違いがあるだけです。本願に気づきますと、まだ気づいていない人のことはよく分かります。自分もまた気づくまではそこにいたのですから。しかし、まだ気づいていない人は、本願に気づくということがどういうことかさっぱり見当がつかず、そもそも自分が本願に気づいていないとも思っていません。本願に気づいていないことは、気づいた後にはじめて了解できます、「あゝ、これまでは気づいていなかったのだ」と。
 で、本願に気づいた後に気づいていなかったこれまでを振り返りますと、「わたし」がすべてを采配し、これは信じるに足りるが、これは疑わしいと裁定を下していたことが見えてきます。これはしかしスピノザ流に言いますと、「われわれは善と判断するから(信じられると判断するから)、それを欲望するのではなく、それを欲望するから、善と判断する(信じられると判断する)」(『エチカ』)のです。そしてそのことを親鸞は「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)と言い放ちます。「わたし」が、これを信じ、これを疑うとしているのは、「みなもてそらごと、たわごと」にすぎないと。
 さてしかし、これらの「そらごと、たわごと」はみな本願他力の掌の上のことであり、「そらごと、たわごと」が「そらごと、たわごと」であるがままで、「まこと」であることに気づくのです。これが「ただ念仏のみぞまことにておはします」ということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

疑うということ [『教行信証』精読2(その133)]

(7)疑うということ

 「自力対他力」といえば、「自力」さもなくば(or)「他力」と受け取られるように、いまの「信対疑」も、「信じる」さもなくば(or)「疑う」というように受け取りますと、信と疑を同じ平面上に並べた上で、どちらかを選ぶということになります。しかし本願他力は、自力に対する他力ではなく自力をも包摂する他力であったように、本願の信は、疑に対する信ではなく疑をも包みこむ信です。「信or疑」ではなく「信and疑」です。さてしかしそれはどういうことか。
 われらはいつも疑いのなかにあります。いつも何かの問いの前にたたずんでいるということです。もう疑いも問いもないという人がいるでしょうか。無量寿経の印象的なことばを上げますと、「田あれば田を憂い、宅あれば宅を憂い、牛馬六畜、奴婢、銭財、衣食、什物(じゅうもつ、家財道具のこと)、またともにこれを憂う」とありますが、この「憂う」というのは、いまはこれらの物をたよりにしているが、いつかなくなるのではないかと「疑う」ということです。
 疑いの震源は「わたし」です。「わたし」が何かを判断しようとしますと、あれもこれも疑わしくなってきます。なぜかといいますと、「わたし」と何かの間には多かれ少なかれ隙間があり、そこに疑いが忍び込んでくるのを防げないからです。判断するとは分別することであり、分別するとは隙間を作ることに他なりません。ですから、どれほど確からしいことも、疑えないことはありません。デカルトはそれを実際に思考実験してくれましたが、あらゆることを疑い尽した果てに残ったのは「わたし」だけでした。「われ思う(疑う)、ゆえにわれあり」です。
 先ほどは、あらゆることが自力であると言いましたが、今度は、あらゆることが疑わしいと言わなければなりません。さてしかしそうしますと本願の信とは何か。あらゆることが疑わしい中で、本願だけは確かだということでしょうか。そうではありません。「わたし」が本願について判断しようとする限り、本願もまた疑わしいと言わざるをえません。「わたし」と本願との間にも隙間があるからです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文3 [『教行信証』精読2(その132)]

(6)本文3

 念仏と諸善が、今度は教えを受ける機について比較対照されます。

 また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪(正定聚か邪定聚か)対、是非対、実虚(じっこ)対、真偽対、浄穢(浄心か濁心か)対、利鈍対、奢促(しゃそく、さとりが遅いか速いか)対、豪賤(ごうせん、功徳を得て豊かか貧しいか)対、明闇(みょうあん)対あり。この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。

 (現代語訳) また念仏の機と諸善の機を比較しますと、信(本願を信じる)に対するに疑、善に対するに悪、正(正定聚)に対するに邪(邪定聚)、是に対するに非、実(真実)に対するに虚(虚偽)、真に対するに偽、浄(浄心)に対するに穢(濁心)、利(仏智を得て利根)に対するに鈍、促(悟りが速い)に対するに奢(遅い)、豪(功徳をえて豪富)に対するに賤、明(仏智をえて明)に対するに闇(無明の闇)となります。とは言うものの、本願の一乗海に入っている機を考えてみますと、すでに金剛のような信心をえた人ですから、もうあれこれの比較を超えた絶対不二の機というべきです。

 ここでも比較対照のあと、「しかるに」とありますが、先の場合と同じように、念仏者はもう他のものたちとの比較を絶していると読むべきです。本願念仏の教えが絶対無二であるように、それを受ける機もまた絶対無二であるということです。
 教えの比較対照が「自力対他力」に収まるように、それを受ける機の比較対照も「信対疑」に収まると言えるでしょう。善と悪の対比は、本願を信じるがゆえに善であり、疑うがゆえに悪であるということ、正と邪の対比も、本願を信じるがゆえに正定聚となり、疑うがゆえに邪定聚となるといった具合で、念仏者は信の人であるのに対して、それ以外の人は疑の人であるということに尽きます。「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とし、すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心をもつて能入とす(還来生死輪転家、決以疑情為所止、速入寂静無為楽、必以信心為能入)」(正信偈、源空讃)ということです。
 さてこの「信対疑」の対比についても、先の「自力対他力」の場合と同じように注意が必要です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

「対」と「即」 [『教行信証』精読2(その131)]

(5)「対」と「即」

 唯識派の「末那識(まなしき)」がそれを明らかにしてくれています。われらの意識には例外なく「わたし」の刻印が押されているということです。われらが何かをするときは、それが無意識でない限り、必ず「わたし」がするという意識が伴います。前にも言ったことがありますが、どれほど正気を失い、自分が誰かが分からなくなったとしても、「わたし」と「あなた」の区別だけは手放すことがありません。「オレは天皇だ」と錯乱する人も、オレとオマエの違いははっきりしています。
 何をするにせよ、それは自分がするのであり、つまり自力です。たとえ人に命じられてすることであれ、嫌だなあと思いながらも仕方なく腰を上げるのは自分であり、自分が腰を上げなければ何ごともはじまりません。逆に、人に命じてやらせることも、やるように命じるのは自分であり、自分が命じなければ何ごともはじまりません。その意味では、自分のすることに関しては、あらゆることが自力であると言うことができます。どこにも他力はありません。
 このようにすべてが自力でありながら、自力のままでそっくりそのまま他力であるということ、これが本願他力というときの他力です。われらが何かをするとき、それは「わたし」がそうしようと思ってしているということは天地がひっくり返っても確かですが、それは実はそうするべくしてそうしているということ、あるいは、見えない力でそうせしめられているということです。われらはすべて自力だと思っていますが、そしてそれは紛れもなく事実ですが、それがそのままで他力であると気づくこと、これが本願他力です。
 したがって「自力対他力」というよりも「自力即他力」というべきです。あるいは「自力or他力」ではなく「自力and他力」ということです。自力聖道門と他力浄土門の対比についてはこう言えばいいでしょうか、他力の事実に気づくことなくただ自力しかないと思っているのが自力聖道門であるのに対して、自力は自力のままで同時に他力であると気づいているのが他力浄土門であると。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問