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11月12日(金) [矛盾について(その107)]

 ちょっと待ってくれ、自分の中の煩悩に気づかされて悲しみに満たされているというのに、どうして「そのままで救われている」などと言えるのだ、という疑問が出されることでしょう。そこで、この辺りの微妙な間合いを考えるために、中国は唐の時代の僧侶、善導の思想を紹介したいと思います。
 彼の著した『観無量寿経疏』を一読した法然が、浄土思想の真髄に触れた思いがしたと述懐していることはよく知られていますが、その書物(『観無量寿経』という経典の注釈書です)に「二種深信」の思想が説かれています。彼自身のことばを引いておきましょう。
 「ひとつには、自分は紛れもなく罪深く迷いの中にある凡夫で、はるか昔からずっと生死の海を流転してきて、そこから抜け出る縁などあるはずがないと深く信じることです。ふたつには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を疑いなく救いとってくださるから、その本願の力にお任せしていれば必ず往生できると深く信じることです」。
 前者の「こんな罪悪生死の凡夫が救われるはずがない」と信じるのを「機の深信」と呼び、後者の「阿弥陀仏の本願はそんな凡夫を救ってくださる」と信じるのを「法の深信」と呼びます。機とは自分、法とは本願のことです。
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