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11月9日(水) [矛盾について(その463)]

 ある人が金子氏にこんなふうに問いかけます。「『自分の心のうちで幸福だと思えば幸福だし、不幸だと思えば不幸なので心の持ち方次第だというけれど、それは卑怯だと思う。自分の力でよい経済状態を、またよい環境を積極的につくり出すのでなければ幸福は得られないのではないか』という若者からの批判にどう答えたらいいか」と。それに対して、金子氏はこう答えます。
 「人間は心次第だ、気の持ちようだといいますが、それに違いないが、どうしたら心次第になるかそれが問題です。心次第ということは、いかなることも、ものごとを善意に解釈するということです。客観的に考えるとわけはないみたいだが、いざとなるとなかなかできないことです。人間は本来ものごとを悪意にしか解釈できないのですから。どんなことでも善意に解釈することはどうしたら出来るかそれが問題です」。
 若者たちが「ものごとは心の持ち方次第というのは卑怯だ」と思うところには、心をどんなふうに持つか(幸福だと思うか、不幸だと思うか)は、その人の思うままだという前提があります。もしそうだとしますと、これは確かに卑怯かもしれません。何の努力もしないで、安易に幸福感に浸れるのですから。しかし幸福と思うか、不幸と思うかは、意のままになるものでしょうか。
 世の中そう単純にはできていません。どんなに幸福だと思おうとしても、現実がすぐさま訂正をしてきます、「この現実のどこが幸福なんだ」と。ですから問題は「どうしたら心次第になるか」です。現実がどうであるかにかかわらず幸福だと思うためには何が必要か、ということです。例えば会社をリストラされて、新たに仕事を探しても見つからないという状況の中で、どうしたら幸福と思えるか。難病におかされ、もう社会復帰は不可能になってしまって、それをどうしたら幸福と思えるのか。

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