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12月9日(金) [矛盾について(その493)]

 政治と宗教の大切さは改めて言うまでもなく、またそれらが党派や宗派という形を取ることになるのも必然です。政治的な見解を同じくする人たちがおのずと集まり、似たような宗教的感性をもつ人たちがひとつに寄り集うのは自然の成り行きでしょう。それ自体を否定するべきではなく、否定できるものでもありません。ただ、党派間の争い、宗派間の戦いが自己目的化して、他派を攻撃することが自派の存在証明であるかのような倒錯は避けなければならないということです。これがしかし、言うは易く行なうはかたし、です。
 党派でも宗派でも、互いに大きくかけ離れている場合よりも、むしろ近い関係である方が対抗意識が強いように思われます。例えばキリスト教と仏教では、あまりにも違いすぎて競合することはそれほどないだろうと思いますが、浄土宗と浄土真宗との間に結構深い溝があったりするものです。そんな溝ができない条件とはどのようなものか、金子氏はこんなふうに言います、「宗派があるということも、宗派を超えた何かが宗派によって表されなければならない。たとえば浄土真宗なら浄土真宗によって、初めて宗教精神というものがわかりましたというようなものがなくてはならない」と。
 「宗派を超えた何か」と言いますと、あらゆる宗派の上にあって君臨している何かといったイメージを持ってしまいますが、そうではなくて、あらゆる宗派の底にある何か―宗教精神とでも言うしかないもの―が、それぞれの宗派を支えていると考えるべきではないでしょうか。それに支えられることで、それぞれの宗派がそれぞれの宗教文化を自由に花ひらかせることができる。
 逆に言いますと、ぼくらはそれぞれの宗派の文化をくぐって、その底を流れる宗教精神に触れることができます。もっと言えば、人間精神の一番深いところに触れることができる。そしてそれさえできれば、他からどれほど批判され攻撃されても一向に動じることはありません。なにしろもうすでに人間精神の深くて大きい流れの中にいることを実感しているのですから。

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