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6月24日(日) [『歎異抄』を読む(その40)]

 阿弥陀仏が待っていてくださると言われても…、ということでした。
 「光」と「声」に遇う、ここに鍵があります。
 浄土の教えでは光のたとえがしょっちゅう出てきます。阿弥陀仏という名からして「無量の光の仏」という意味です。『無量寿経』には、この無量光仏をはじめとして無辺光仏、無碍光仏など12もの名が上がっていますが、阿弥陀仏に遇うというのは、光に遇うことに他ならないのです。希望が見えてきたとき、「光が見えた」という言い方をします。希望は光で表されることが多いようです。比喩的な意味でなくても、光はぼくらに何とも言えない安堵感を与えてくれます。
 若い頃のささやかな経験ですが、いまだにその日のことは鮮明に焼きついています。大学に入ってはじめて下宿をしたときのことです。日本全体がまだ貧しかった頃のことですから、学生の生活用具などわずかなものですが、それらを部屋に運び入れたときには、もうたそがれ時になっていました。暗いなと思い、電気をつけようとして驚きました。天井からはソケットがぶら下がっているだけで、そこに電球がないのです。先住者が電球まで引越しさせたようです。
 慌てました。このまま暗くなっては大変と、すぐ飛び出して電気屋さんを探しましたが、あいにく日曜でみんな閉まっています。どうしようもないからこのまま寝てしまおうかとも思いましたが、ほんとうに真っ暗で、押入れから布団を引っ張り出すことすらままならない。そのとき、ふとひらめいたのが街燈でした。あの電球をひと晩お借りしようと。誰かに見られているのではないかとヒヤヒヤしながら電柱をよじ登り、首尾よく電球をはずしてそれをソケットにねじ込み…、部屋がパッと明るくなったときの安堵感は何とも言えないものでした。

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