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8月9日(木) [『歎異抄』を読む(その85)]

 ぼくらが「なむあみだぶ」と称えているには違いないが、実はそれは諸仏が「なむあみだぶ」と称えているのだということです。
 秋葉原の交差点で、倒れた人たちを助けようと駆けつけたのは、紛れもなくタクシーの運転手さんですが、実は還相の仏が駆けつけたのです。それを自分の慈悲心だと思い違いするでないぞ、というのが第4章のポイントでした。
 同じように、「なむあみだぶ」と称えているのは自分だと思い違いするでないぞ、というのが第5章と第6章の趣旨です。自分が「なむあみだぶ」と称えていると思い違いするところから、第5章の「亡き父母の供養のための念仏」が出てくるのであり、第6章の「わが弟子、ひとの弟子の争い」が生まれてくるのです。
 念仏はまずもって聞こえてくるものです。「聞名」です。「生かしめんかな」と聞こえる。あるいは「そのままで救われる」と聞こえるのです。その瞬間「あゝ、有難い」という思いとともに思わず「なむあみだぶ」と称える。「称名」です。それは自分が称えているのではなく、諸仏がぼくらの口を借りて称えている。「生かしめんかな」と称えているのです。
 念仏は衆生が「聞き」、諸仏が「称える」のです。
 「仏とはいのちである」こと、そして「聞名は衆生だが、称名は諸仏」というお話をしてきました。それに関連してもうひとつつけ加えたいと思います。

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