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9月28日(金) [『歎異抄』を読む(その135)]

 「真俗二諦」といいますのは、簡単に言いますと、信仰の論理とは別に世俗の論理というものがあるのだから、世俗の中に生きている以上、その論理をないがしろにしてはいけないという考え方です。信心を大切にするのは勿論だが、同時に国家の戦争政策に協力していくのは当然の義務だというのです。そしてこの考え方は宗祖親鸞の中にあると言います。ここがぼくの関心を大いに引くところです、本当にそうなのかと。
 その考え方の元は親鸞にあるという時、引き合いに出されるのが親鸞の手紙です。ある手紙の中で親鸞は、自分のことよりも「朝家のため国民のために」念仏するべきだという趣旨のことを言っています。これだけを見ますと、親鸞は何だか天皇のため国のために念仏すべきと言っているようですが、ことばというものは全体の中で捉えなければ取り違えてしまいます。
 この手紙は、関東の念仏者たちに対して訴訟が起こされ、それに苦しんでいる人々に向けて、そうした訴訟に対する基本的な考え方を述べているのです。まず、念仏を妨げようとするこうした訴えは今に始まったことではなく、法然上人の昔からあったことだと言います。念仏が訴えられるのは世のならいだと言うのです。
 同じ時期に書かれたと思われる手紙に「他の神仏を侮るようなことをしてはいけません」と書いてあるところから考えますと、当時の念仏者の中に他の宗派や神社を侮るような行動が見られたのでしょう。そこから「けしからん奴らだ、専修念仏を停止すべきだ」という訴えが起こされたと思われます。そうした訴えにどう対処すべきか。
 今見ましたように親鸞は「他の神仏を侮ってはいけません」と言います。しかし「他の神仏を拝みなさい」とは決して言いません。念仏を妨げようとして喧嘩を吹っかけてくる者たちに、同じ土俵で喧嘩をすることを戒めているのであって、相手の言うがままに振舞いなさいと言っているのではありません。

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