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10月26日(金) [『歎異抄』を読む(その163)]

 更新が遅れました。
 仏教の基本を改めて確認しておきたいのですが、二十九歳の釈迦が出家をして求めたのはこの世のさまざまな苦しみからの脱却です。あらゆる苦しみの原因は煩悩にありますから、煩悩を断ち切ること、つまり解脱が目指すべき目標ということになります。
 では、どのようにすれば解脱できるかと言いますと、この世の真相、無常とか無我ということばであらわされる世界の実相を悟ることによってだと釈迦は考えました。ですから、悟りを開くことが解脱することに他なりません。悟りを開くということは、煩悩を断ち切るということです。
 釈迦は三十五歳の時悟りを開いたとされます。悟りを開いた人を仏陀、それを約めて仏と言いますから、釈迦は生きたまま仏となったのです。生きたまま煩悩を断ち切ったということです。以来仏教は釈迦の後を追うことを目指してきました。
 この身のままで悟りを開くこと、つまり「即身成仏」は仏教の目標であったのです。わが国の南都六宗はもとより空海の真言宗も最澄の天台宗もそれを目指したのです。それが仏教の伝統なのです。
 ところが唯円はここで「来生の開覚は、他力浄土の宗旨」と言います。浄土門では、今生で悟りを開くなんてとんでもない、悟りを開くのは来生だというのです。どうしてかと言いますと、「おほよそ今生にをいては、煩悩悪障を断ぜんこと、きはめてありがた」いことだからです。今生において煩悩を断ち切ることができるのは、釈迦のような特別な人だけで、われら下根の凡夫にはとうてい不可能だという訳です。
 これまでの仏教、いわゆる聖道門は「今生の悟り」を目指すが、浄土門は「来生の悟り」を説く。ここには余りにも大きな懸隔があります。

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