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3月10日(日) [はじめての親鸞(その73)]

 「いる」ことは「する」ことのすべてが可能となる場所です。デカルトは何かを「する」ことの確かさ、そして何かを「する自分」の確かさを明らかにしてくれましたが、それを支えているはずの「いる」ことの確かさ、「いる自分」の確かさについては何も言ってくれません。「する」ことには「いる」ことという後ろ盾がありますが、「いる」ことにはもう後ろ盾がありません。
 「三角形の内角の和は180度である」ことを証明する作業を続けていきますと、もうこれ以上は遡って証明できないという所に行き着きます。それを公理といいますが、公理にはもう後ろ盾が一切ありません。それはただ与えられています。この与えられた公理を安心して受け入れられれば、ユークリッド幾何学の体系は磐石です。でも、この公理がほんとうかどうかに不安が兆したら…。
 「いる」ことがほんとうかどうか不安が兆すことがあります。「存在が透明になる」不安です。あるいは「居場所がない」という不安。この不安には自分ではどうにも対処できません。「いる」ことにはもう何も後ろ盾がないからです。この不安を吹き飛ばして、「いる」ことに安心させてくれるのは「あなた」のひと言です。「そのまま生きていていいよ」のひと言。この声が聞こえてはじめて「いる」ことに安心できます。
 そして「いる」ことに安心できれば、もう何も問題はありません。すべての「する」ことは「いる」ことに支えられているのですから。

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