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6月7日(金) [はじめての親鸞(その161)]

 釈迦と同じように悟りをひらくことができれば、誰でも死の不安から解脱できるのですが、釈迦入滅後時間が経つにしたがって、今生で悟りをひらくのは難しいと考えられるようになります。この見方とセットになって、阿弥陀仏を念ずることにより極楽浄土へ往生することができるとする浄土の教えが力を持ってきます。「今生の悟り」は困難でも「来生の往生」があると。
 往生は悟りに代わるものとして人々に希望を与えることになっていくのです。
 こうして人々の目は今生から来生へ、今生きていることから死んだ後のことへと向きが変わっていきます。死の苦しみからどのようにして脱却するかということから、死んだ後どうなるか、首尾よく極楽浄土へ往生できるか、それともまた六道を輪廻するのかということへ。
 本題からそれていくようですが、「死後の世界」は浄土の教えの根幹に関わりますので、もう少し考え続けたいと思います。
 前に名前を上げたことのある森岡正博という人に『宗教なき時代を生きるために』という本があります。オウム事件に衝撃を受けて書かれたもので、著者には自分もひょっとしたらオウムに入っていたかもしれないという危機感があり、それがこの本を書くきっかけとなったようです。
 彼の問題意識はこうです、「生きる意味とは何か、私が存在するとはどういうことか、これらの問いに自然科学は何も答えてくれない。しかし、それらの問いに解決を与えてくれるという宗教を、私はけっして信仰することができない。科学にも満足できず、かといって宗教の道にも入ることのできない、この宙ぶらりんの私は、どうやってこの世界で生きていけばよいのだろうか」。

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