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6月13日(木) [はじめての親鸞(その167)]

 さて「本願に遇うことができたそのときに今生の往生が成就している」ということですが、親鸞はどこかからこの「絶対の真理」を引っ張り出してきて、ただただ拳々服膺しているだけなのでしょうか。
 そうではないということは、少しでも『教行信証』を読んでみればすぐ分かります。たとえば、彼はそこで引用している経論の文章を思いもかけない読み方をしているのです。前に紹介しました第十八願成就文の読み方を思い出してください。「(あらゆる衆生が)至心に回向して」と読むところを、親鸞は「(阿弥陀仏が)至心に回向したまへり」と読んでいました。
 これが相当無理な読み方だということは重々承知の上でしょう。無理だとは分かっていてもそう読まずにはいられないのです。いや、そう聞こえてくると言った方がいいのかもしれません。『無量寿経』と対面している彼の耳に「至心に回向したまへり」と聞こえてきたのだと。
 このような例は枚挙にいとまがありません。親鸞は本当に自由に経・論を読んでいるという印象を受けます。これは何を意味するかと言いますと、親鸞は経・論を「そこには絶対の真理が説かれている」とは受け取らす、自分の身体をフィルターとして経・論と向かい合っているということです。そうする中で彼は「本願に遇うことができたそのときに今生の往生が成就している」と聞き取ったのです。
 ですから、どうしてそんなことが言えるのかと問いかけられたら、「経・論にそう書いてある」とは言わず、「私は経・論からそう聞き取った」と答えるはずです。「自分はこう聞いたのですが、いかがでしょう」と言っているのです。ボールはこちらに投げ返されています。

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