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6月18日(火) [はじめての親鸞(その172)]

 「浄土は西岸にあれども、浄土の門までも西岸にあると思うべからず。浄土は西岸にあれども、浄土の門は東岸にある」とは曽我量深氏の名言です。東岸とはいまぼくらが煩悩の炎に焼かれている穢土に他なりませんが、そこに浄土の門があるというのです。
 穢土のいたるところに門があり、そこから「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてきます。その声にひかれてふと門をくぐれば、そこはもう光あふれる世界。身は依然として煩悩にまみれたまま苦海を浮き沈みしています。それは何も変わりません。でも不可思議なるかな、心はもうすでに浄土にいるのです。
 突然ですが、ここで「おたまじゃくしは蛙の子」について考えてみます。
 「おたまじゃくしは蛙になる」と「おたまじゃくしは蛙である」、さてどちらが正しいでしょう。「蛙になる」に決まっているよという声がします。ではお聞きしますが、人間の子は人間ですね。としますと、蛙の子であるおたまじゃくしは蛙ということになりませんか。
 「おたまじゃくしは蛙になる」は文句なく正しいですが、「おたまじゃくしは蛙である」も負けず劣らず正しいのではないでしょうか。おたまじゃくしはある時期おたまじゃくしの姿をとっているだけで、本質的には蛙であると言ってもいいのではないでしょうか。
 信心が定まり仏になることが約束された人を「正定聚」と言います。正定聚は必ず仏になるのです。としますと、正定聚はもう仏であるとも言えるのではないでしょうか。「仏になる」と「仏である」とは紙一重です。

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