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公理にはもう後ろ盾がない [生きる意味(その16)]

(13)公理にはもう後ろ盾がない
 「いる」ことに対して「本当か?」という不安がチラッと走る。前に言いました「存在が透明になる」不安です。この不安には自分ではどうにも対処できません。「いる」ことにはもう何も後ろ盾がないからです。「生きる意味」は自分では調達できない、というのはこのことです。
 「ちょっと待って。“いる”ことは直接意識できないとさっき言ったね。で、今は“いる”ことに対して不安になると言う。何か矛盾してないかな?不安になるということは、意識してるってことじゃないの?」
 いや、意識してないから不安になるのです。「存在が透明になる」不安は意識のレベルを越えています。意識のレベルでは「今ここに自分がいる」ことほど確かなことはありません。それはデカルトの言う通りです。どんなにひどく「シカト」されていても、そうされている自分がいることは確かです。でも、それは意識された自分、「する」自分です。それがどれほど確かでも、「いる」ことの不安はどこかから忍び寄ってくるのです。
 「いる」ことの不安を吹き飛ばして、「いる」ことの確かさを与えてくれるのは、他者からのメッセージしかありません。「あなたがいてくれることが必要だ」というメッセージ。あるいは「あんたが生きいてくれてよかったよ」というメッセージ。これがあってはじめて「いる」ことを安心して受け入れることができるのです。そして「いる」ことを安心して受け入れさえすれば、もう何も問題はありません。すべての「する」ことは「いる」ことに支えられているのですから。

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