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「いる」ことへの眼差し(つづき) [生きる意味(その20)]

(17)「いる」ことへの眼差し(つづき)
 小さい頃からほったらかしにされてきたから努力できないとすれば、本人に自由意志がないということになります。「ぼくは誰にもかまってもらえなかったから努力できません」と宣言することは、「ぼくには意志がありません」と言っているようなものです。
 努力しないことについては全面的に自己責任です。問題は努力しないという事実の背景にある事情で、それを斟酌する必要があるかどうかです。それを斟酌しても、そのことで努力しないことの自己責任がこれっぽちも減る訳ではないことは、もう繰り返す必要はないでしょう。では斟酌することで何が変わるのか。
 本人が努力しないという事実が問題であって、それにどんな背景があろうがそんなことは関係ない、本人が努力しない結果勉強ができない、したがってその責任はすべて本人にある、以上終わり、と考えるか。それとも、努力しないことの自己責任は厳しく追及しつつも、その背景にも眼を向けようとするか。
 結局、人間に向ける「眼差し」の違いです。努力しないという事実しか見ないか、その事実とその背後にいる人間そのものを区別して、どちらにも眼を注ごうとするか。「罪を憎んで人を憎まず」と言います。これは罪と人を区別しています。同じように、努力しないという事実と、その背後にいる人間そのものを区別するかどうか。
 努力しないという「する」ことにだけ注目するのか、それとも、「する」ことの背景にある「いる」ことにも気を配るのか、これです。

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