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第17の願とは何か? [『末燈鈔』を読む(その247)]

(7)第17の願とは何か?

 第17願のもつ意味は何かについては前にも出てきましたが、肝心なことですので繰り返しを厭わず考えておきましょう。
 慶西房が質問したかった中に第17願の意味が含まれていたのはよく分かります。ぼく自身がどうしてこの願がそんなに大事なのかがなかなか了解できなかったからです。なぜ親鸞は「行巻」の冒頭にこの願を掲げ、「行」の根拠としているのかが長いあいだ腑に落ちないままでした。諸仏が阿弥陀仏を讃えてその名を称えることが、われらとどういう関係があるのかという疑問が消えなかったのです。ということは行巻そのものがよく分かっていなかったということになります。
 その疑問に親鸞はこの手紙でズバリと答えています、「十方衆生をすゝめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとゞめん料」と。本願の中の本願は第18願、念仏往生の願です。「十方の衆生、心を至し信楽して、わがくににむまれむとおもふて、ないし十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」。これが法蔵の願いであり、誓いです。ここにすべてがあると言っていい。とするならば第17の願は何なのか。親鸞は言います、その誓願を十方の衆生に聞かしめ、念仏を勧めんためだと。
 このことが長いあいだ見えなかったのです。
 ぼくがある願いをもったとしましょう。たとえば妻が悲しみを抱えて鬱々としているようなとき、早く元気をとりもどしてほしいと思います。その思いはぼくの中には紛れもなくありますが、それを何らかの形で表現しない限り、本当の意味で存在することにはなりません。ことばにして言うのがいちばんはっきりしますが、ちょっとした仕草でもいい、とにかく外に形にしないと存在しているとは言えません。
 第18願も同じです。「一切衆生を往生させたい(平たく言えば、みんな幸せに生きてほしい)」という思いがあっても、それを形にして表さなければ、願いとしてあることにならないのです。


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