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たとひ法然上人にすかされまひらせて [『末燈鈔』を読む(その260)]

(6)たとひ法然上人にすかされまひらせて

 ここで、またもや『歎異抄』第2章の一節を参照したいと思います。
 「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。
 わたしとしては、ただ「仏となれますよ」という弥陀の約束を信じるだけです、たとえその約束が反故にされて、念仏して地獄におちても一向に後悔しません、と言っていますが、ここで注意すべきは、「たとひ法然上人にすかされまひらせて」という言い回しから、うっかり法然上人の約束を信じるというように解してはならないということです。
 あくまで約束は弥陀からくるのであり、法然はそれを受け継いでいるだけです。「なむあみだぶつ」のリレーです。「なむあみだぶつ」とは「帰っておいで」という呼びかけであり、「仏になれますよ」という約束ですが、これは弥陀から直接くるのではなく、次々とリレーされてぼくらのもとに届くのです。
 さて問題は、「仏になれますよ」という約束が反故にされても一向に後悔しないのはどうしてか、ということです。これまで繰り返し述べてきましたように、約束は反故にされる可能性がつきまとい、それを避けようとして証文を取ったり証人を立てたりするのです。つまり反故にされてはたまらないと思うものです。ところが親鸞は反故にされてもかまわないと言う。これはどうしたことでしょうか。
 その答えは先に引用した文につづくことばにあります。


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