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本文21 [『唯信鈔文意』を読む(その166)]

                第12回

(1)本文21

 「汝若不能念(にょにゃくふのうねん)」といふは、五逆十悪の罪人、不浄説法のもの、やまう(ひ)のくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずば、ただくちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願とちかひたまへることをあらわさむとなり。「應称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。應称はとなふべしとなり。「具足十念、称南無無量寿仏、称仏名故、於念念中、除八十億劫、生死之罪」といふは、五逆の罪人はそのみにつみをもてること、と(十)八十億劫のつみをもてるゆへに十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念にと(十)八十億劫のつみをけすまじきにはあらねども、五逆のつみのおもきほどをしらせむがためなり。十念といふは、ただくちに十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には「若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚」とまふすは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生、みな往生すとしらせむとおぼして十声をのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。
 この文どものこころはおもうほどはまふさず、よからむひとにたづぬべし。ふかきことはこれにてもおしはかりたまふべし。

 (現代語訳) 「汝若不能念(なんぢもし念ずるあたはずは)」と言いますのは、五逆十悪の罪人や、よからぬ思いを持って教えを説く者、あるいは病の苦しみにある者が、心に弥陀を思うことができなくても、ただ口に南無阿弥陀仏を称えるようすすめることばです。これは称名を本願としてくださったことを言おうとしているのです。「應称無量寿仏(まさに無量寿仏を称すべし)」と言われているのは、そういうことです。「應称」とは、称えなさいということです。「具足十念、称南無無量寿仏、称仏名故、於念念中、除八十億劫、生死之罪(十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」と言いますのは、五逆の罪人はその身に八十億劫の十倍の罪を持っていますから、十度、南無阿弥陀仏と称えなさいとすすめることばです。一度念仏すれば、八十億劫の十倍の罪を消せないことはないでしょうが、このように言うのは、五逆の罪の重さを知らせようとしてのことです。十念と言いますのは、ただ口に十返称えるべしということです。ですから本願に「若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚(もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ)」と言われるのは、十回でも称えるものはみな往生できると知らせようとして十声と言われるのです。念と声は同じことです。念をはなれた声はなく、声をはなれた念もありません。
 これらの文の意味を十分に申しのべることはできません。心得のある人に聞いてください。詳しいことは、ここから推し量ってください。

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