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南無阿弥陀仏のリレー [『唯信鈔文意』を読む(その176)]

(11)南無阿弥陀仏のリレー

 どうして親鸞は聖覚の『唯信鈔』を勧め、『唯信鈔文意』を著したのかという疑問に答えようとしてきました。それをひとことで言いますと、親鸞にとって大事なのは自分の見解を明かにすることではなく(そもそも自分の見解などというものはありません)、南無阿弥陀仏の真理をリレーすることにあるということです。
 それは釈迦から龍樹へ、天親へ、曇鸞へ、道綽へ、善導へ、源信へ、法然へとリレーされ、それがさらに聖覚へと受け継がれました。
 ですから、法然の『選択集』を勧めてもいいのですが、それは漢文で書かれ「ゐなかのひとびと」の手に余ります。そこで『選択集』の勝れたダイジェストであり、和文で書かれた『唯信鈔』をみなさんに送ります。ただ『唯信鈔』の文言が誤って伝わるといけませんので、わたし親鸞に聞こえたままをみなさんにお知らせしようと思います―これが親鸞の偽らざる気持ちではなかったでしょうか。
 最後にあたりまして、この南無阿弥陀仏のリレーについて、「自力と他力」に立ち返って捉え返しておきたいと思います。
 ある日のことです、講座が終って廊下に出たところで、受講されていたひとりの女性からこんなふうに話しかけられました、「他力ということを何か特別なことのように言われていましたが、他力なんてそこらへんにいくらでも見られますよ。心臓は頼まれもしないのに、一時も休まず働いてくれていますし、胃だって腸だって、わたしたちの意志に関係なくそれぞれの仕事をしてくれています。これらはみな他力ではありませんか」と。
 とっさのことで、「はぁ」と情けない声がもれただけでしたが、何か違うなあという思いが澱のようにこころの底に残りました。

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