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せしめらる(させられる) [『一念多念文意』を読む(その87)]

(14)せしめらる(させられる)

 自力で「われ」への囚われから抜け出そうとしてもできず、他力ではじめてできるということです。
 ここで気をつけなければならないのは、他力で抜け出すといいますと、ともすると自力では無理だから他力を借りて抜け出そうというように受けとってしまうことです。これは他力のようでも実は純然たる自力です。他力を借りるとしても、自分で「われ」への囚われから抜け出そうとしているのですから。とにかく、どんなことであれ、こうしようと思ってすることは隅から隅までみな自力です。
 では他力とは何かと言いますと、気がついたらすでに「われ」への囚われから抜け出していた、ということです。この「気がついたらすでに」というのが他力のしるしです。そして、これは「せしめらる(させられる)」というように言い換えることができます。これは親鸞がしばしばつかう使役の受身で、他力を表すときに用いられます。さて、では誰に「せしめらる」のか。ここで過去存在としての仏の出番があります。現在存在としての仏ではなく過去存在としての仏です。
 現在存在としての仏から「せしめらる」のと、過去存在としての仏から「せしめらる」のとでは、どう違うでしょう。
 前に上げましたドーキンスの「利己的な遺伝子」のような場合は、まさに現在存在によって「せしめらる」ケースです。「せしめらる」ことを知らなければ「知らぬが仏」で、どうってことはありませんが、それを知りますと何となく不快になります。自分の知らない力で操られているという不快感です。現在存在によって何かを「せしめらる」のは、たとえそれが仏であっても嫌な感じがするのは、こちらに「われ」がいて、あちらに現在存在がある、そしてその現在存在によって「われ」が操られるからです。
 しかし過去存在の場合はどうか。

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