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信心歓喜して聞くところを慶ばん [『浄土和讃』を読む(その96)]

(13)信心歓喜して聞くところを慶ばん

 「これから」がそのまま「ただいま」であるというのは「ことばもたへた」不思議の世界ですが、その不思議を何とかしてことばにしようとするのが権智です。『無量寿経』のことばも、曇鸞の偈も、そして親鸞の和讃も仏智の不思議をどうにかしてことばにしようとしているという意味で権智の働きと言えますが、ぼくはそこにさらに屋上屋を架そうとしているというわけです。さて、そんな思いをもちながら、これから「讃阿弥陀仏偈和讃」の最後の2首を味わいたいと思います。

 「信心歓喜慶所聞 乃曁(ないかい、曁は「およぶ」、したがって乃至と同じ意味)一念至心者 南無不可思議光仏 頭面に礼したてまつれ」(第49首)。
 「弥陀の名号きこえきて、こころに沁みてよろこべば、南無阿弥陀仏となえつつ、頭を
けて礼拝す」。

 この和讃のもとになっているのは曇鸞の偈、「あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて 信心歓喜して聞くところを慶び すなはち一念におよぶまで心を至すもの 回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得」で、これは本願成就文を曇鸞流に詠んだものです。お気づきでしょうか、すでに親鸞はこの偈をもとに「十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん」(第25首)、「若不生者のちかいゆゑ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」(第26首)とうたっていました(第3回の24から26を参照)。
 「讃阿弥陀仏偈和讃」の最後の締めくくりとして、もう一度本願成就文をうたっているのです。親鸞がいかにこの文を大事にしていたかが伺えます。
 ところでこの曇鸞の偈は『信巻』でも引用されているのですが、その読み方がまた親鸞独特です。「あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて 信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念に及ぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずれば、みなゆくことをえしむ」と読んでいます。これは成就文そのものの親鸞流読み方「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり」と軌を一にしており、至心は「われら」ではなく「弥陀仏」だとするのです。

タグ:親鸞を読む
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