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念仏成仏これ真宗 [『浄土和讃』を読む(その132)]

(15)念仏成仏これ真宗

 さていよいよ「大経和讃」も終わりに近づき、締めくくりの2首を残すだけとなりました。その一首。

 「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実(ごんじつ)真仮(しんけ)をわかずして 自然(じねん)の浄土をえぞしらぬ」(第71首)。
 「浄土門こそ真実で、聖道門は仮門なり。真仮の区別できずして、他力の浄土しりえない」。

 本願念仏の教え(浄土門)こそ真の仏教(真宗)であり、万行諸善の教え(聖道門)は方便であるというのです。この区別をわきまえなければ、真実の浄土へいくことはできないと(「権実」とは、方便と真実ということで、「真仮」と順序は逆ですが同じです)。
 本願念仏の教えこそ仏教であるという自負はどこからくるのでしょう。仏教と言えば何といっても無我でしょう、つい先ほど出てきましたアナートマンです。本願念仏の教えと無我とは何の関係もないように思えますから、本願念仏の教えこそ仏教であるというのは、どう見ても無理があるような気がします。ごく普通の理解では、無我などという高遠な教えは歯が立たない凡夫のために本願念仏の易しい教えが用意されているというところではないでしょうか。
 ところがどっこい、本願念仏の教えほど難しいものはないと言います。なぜか。それは、本願の気づきが無我の気づきに他ならないからです。
 本願の気づきがどうして難しいかといいますと、「わたし」という強力なバリアが張られているからでした。ところで、「わたし」が真実の声を妨げているバリアであると気づくことが、取りも直さず無我の気づきです。無我とは「わたしがない」ということではありません。動物たちには「わたしがない」と言えるでしょうが、われらはどんな因果か、いつの間にか「わたし」を身にまとうようになりましたから、もういまさら「わたしがない」状態に戻ることはできません。できるのは、われらは「わたし」をまとっているということ、そしてそれが真実の声のバリアになっていることに気づくことだけです。それが無我ということです。
 本願の気づきが、そのまま無我の気づきなのですから、「念仏成仏これ真宗」ではありませんか。

タグ:親鸞を読む
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