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宿業のもよおし [『歎異抄』を聞く(その103)]

(3)宿業のもよおし

 さて第13章です。ここは「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへ」であるにもかかわらず、「われらがこころのよきことをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざる」ことが批判の俎上にのぼせられます。これまでも機会あるたびに宿業について言及してきましたが、ここで改めて宿業を主題として、その含意するところをさまざまな角度から検討していきたいと思います。
 この箇所は第9章と同じく、親鸞と唯円の対話形式で書き進められ、そのことで読むものに強いインパクトを与えます。親鸞から「悪人こそ往生できるという本願だから、ひとつ人を千人殺してみなさい、そうすればかならず往生できますよ」とおそらく冗談半分に言われて、「おほせにはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへず」と答える唯円。ここには何でも腹蔵なく言いあえる師弟の間柄が感じられ、ほのぼのとした印象が与えられます。
 さてしかし、よきこともあしきことも、みな宿業のもよおしによる、ということを腹の底から納得できるでしょうか。
 ここで頭に浮かぶのがカントです。彼の有名なことばとして「いつも感嘆と畏敬をもってこころを満たすものが二つある。わが上なる星のかがやく天空とわが内なる道徳律である」(『実践理性批判』)というのがあります。彼の倫理学は「最大多数の最大幸福をもたらす行為が善である」と考えるイギリス流の功利主義に対して、「行為の結果ではなくその意志が善でなければならない」と主張します。つまり、ある行為がどのような結果をもたらすかではなく、どのような意志(動機)でなされたかが問題であり、理性の命令(道徳律)に従う意志によってなされた行為が善であるとします。
 彼は理性の命令をいろいろなかたちで定式化していますが、そのひとつが「自己や他者を単に手段としてのみ扱ってはならず、つねに同時に目的として扱わねばならない」というものです。そしてカントはこう言います、「汝なすべきがゆえに、なしあたう」と。

タグ:親鸞を読む
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