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その心すでにつねに浄土に居す [はじめての『高僧和讃』(その137)]

(7)その心すでにつねに浄土に居す

 曇鸞が、往生とはいまとは別の生をえるのではなく(それでは輪廻転生と同じです)、「無生の生」であると述べていました。同じように、浄土とはこことは別の土ではなく、「無土の土」と言うべきでしょう。さてしかし、こことは別のどこかではないとしますと、それはどこにあるのか。親鸞は「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)と言いますが(これは善導『般舟讃』のことばを少し言い直したものです)、ここからしますと浄土は「こころの中」にあるということでしょうか。
 頭にうかぶのは「信巻」序にある「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」ということばです。自性唯心とは、こころの他には何もなく、阿弥陀仏も浄土もこころのありようにすぎないとする見方です。無着・世親の唯識の考えではそうなるように思えます。「一切ただ識のみなり」ということばは、こころの他には何もない、すべてがこころの中にあると理解したくなります。しかし、天親のところで触れましたように、「一切唯識」とは「すべてこころの中」ということではなく、「すべてこころに縁る」ということです。こころと無縁にそれ自体として存在するものはないということ。
 親鸞が自性唯心ということばで批判しているのは、阿弥陀仏も浄土も「こころの中」にあるとする見方で、「すべてこころに縁る」ことを否定しているのではないでしょう。
 では、阿弥陀仏も浄土も「こころに縁ってある」とはどういうことか。それは、弥陀も浄土も「こころの中」にあるのでないのはもちろんですが、しかし「こころの外」にこころと無関係にあるのでもないということです。これが弥陀も浄土も「こころに縁ってある」ということですが、忘れてならないのは、われらのこころもまた「弥陀と浄土に縁ってある」ということです。弥陀と浄土がこころに縁ってあるように、こころもまた弥陀と浄土に縁ってあるということ、これが「その心すでにつねに浄土に居す」ということです。

タグ:親鸞を読む
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