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死ぬるときがてっぺん [はじめての『高僧和讃』(その150)]

(20)死ぬるときがてっぺん

 生き切るとは、もうやるべきことをすべてしてしまって、何もすることがないということではありません。やるべきことの途中であっても(途中でないことなんてあるでしょうか)、いのち終わるときがくれば「これでよし」と思えるということです。この間、反骨のジャーナリスト・むのたけじさんが101歳で亡くなりましたが、彼は「死ぬるときがてっぺん」と言っていたそうです。生のてっぺんで死ぬ、いいなあと思いました。生き切ったと思える、だから死に切れるのです。
 さてでは、そんなふうに生き切り、死に切ることができるのは、正定聚になったからであるというのはどういうことでしょう。それに答えるのが、前半の「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ」という文言です。かならず仏になることが定まったという信がえられたから、「ながく生死をへだてける」のです。かならず仏になるということは、もうすでに仏であるにひとしいということです。いま「わたしのいのち」を生きていますが、それはそのままで「ほとけのいのち」を生きているということ。だからいつでも生き切り、死に切ることができるのです。
 少し気になる表現が「さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して」です。これは、信心がさだまるときを待って弥陀の心光が摂護してくださるということです。ふと頭をかすめるのは『観経』真身観(第九観)のあのことばです、「光明はあまねく十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」。これは弥陀の光明は十方世界を照らすけれども、摂取不捨してくださるのは念仏衆生だけと受けとられることがあります。信心の人、念仏の人に限って摂取してくださる、と。しかしそれは親鸞の真意にもとると言わなければなりません。
 弥陀の光明は文字通り十方世界を照らし、あらゆる衆生を例外なく摂取してくださるのです。ただ、そのことに気づいた人とまだ気づいていない人がいます。信心の人、念仏の人とはそれに気づいた人のことです。

                (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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