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つねにわが身をてらすなり [はじめての『高僧和讃』(その192)]

(20)つねにわが身をてらすなり

 ぼくらに聞こえる声には、まず誰かが(本人も含めて)発信した声があります。これはその場にいる人は誰でも受信できますし、録音すればその場にいない人にも聞かせることができます(つまり客観的です)。普通に声と言えばこれを指しますが、それとはまったく違い、自分が自分にこころの中で語る声というものがあります(内語とよばれます)。これは秘かに発信される声ですから、他の人には聞こえませんが(したがって主観的ですが)、だからといってそんなものは存在しないと言う人はいないでしょう。
 そしてさらに、自分も含めて誰かが発信したわけではないが、でも紛れもなく聞こえる声というものがあります。それがソクラテスのダイモニオンであり、そして本願の声です。因幡の源左に「源左たすくる」とはっきり聞こえた、あの声です。これは自分が自分に発した主観的な内語ではありませんし、誰にも聞こえる客観的な声でもありません。現代の精神病理学はこれを幻聴と呼ぶかもしれませんが、しかしそれが聞こえる当人にとって、それこそ「わたしがそれによって生き、それによって死ぬことができる真理」(キルケゴール)に他なりません。
 ぼくらに聞こえる声は、それがもたらしてくれるものによって二つに分けることができます。そのひとつは「情報」を与えてくれる声で、ぼくらに届く声の大半はこれです。ぼくらはこの声を頼りに生きていると言っていい。でも、この声は情報を伝達したその時点で役割を終えます。「津波だ、逃げろ」の声はぼくらのいのちを助けてくれるかけがいのない声ですが、その声にしたがい高台に逃げた時点でもうその役目を終えています。しかしもうひとつ別の声があり、それは「救い」をもたらしてくれる声です。この声は一旦ぼくらに届きますと、「つねにわが身をてら」してくれ、ときどき忘れることはあっても、いつもこころにあってぼくらを救ってくれるのです。

タグ:親鸞を読む
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