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往生みたびになりぬるに [はじめての『高僧和讃』(その228)]

(7)往生みたびになりぬるに

 次の和讃です。二首つづけて読みます。

 「命終(みょうじゅ)その期(ご)ちかづきて 本師源空のたまはく 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし」(第111首)。
 「いのちの終わり近づいて、本師源空いわれるに、これで三度の往生で、このたびとくに往き易い」。

 「源空みづからのたまはく 霊山会上(りょうぜんえじょう)にありしとき 声聞僧(しょうもんそう)にまじはりて 頭陀(ずだ)を行じて化度(けど)せしむ」(第112首)。
 「本師源空いわれるに、霊山上にありしとき、声聞僧にまじわりて、托鉢しつつ済度せん」。

 親鸞は法然の死に目に会っていません。法然は京に戻ってまもなく1212年に亡くなりますが、そのとき親鸞はまだ越後にいましたから、これらの和讃は法然の身近にいた人からの伝聞をもとに詠われているのでしょう。
 第111首では、法然は死を前にして、これで三度目の往生だが、今度の往生はとりわけ遂げやすいと言われたと詠われます。そして第112首で、三度この世に生まれてきたその最初に、霊鷲山上で釈迦の説法を聴きながら、声聞僧にまじって仏道修行をしていたと言うのです。そう言えば源信讃のところでも、「霊山聴衆とおはしける 源信僧都のをしへには」(第90首)とありました。もっとも源信の場合は、亡くなったあと慶祚(けいそ)の夢に出てきた源信がそう語ったと言うことでしたが、この和讃では法然が「みづから」そのように語ったと言います。
 これらの法然のことばでは、往生はいのち終わるに臨んでのことであるのは当然とされています。浄土へ往生して(往相)、浄土から娑婆に還ってきては衆生教化のはたらきをし(還相)、そしてまた浄土へ往生する。それをこれまで繰り返し、今度は三度目の往生を迎えるというのです。

タグ:親鸞を読む
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