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他力ということ [正信偈と現代(その15)]

(4)他力ということ

 中日文化センターの講座で、現実の世界は自力にどっぷり浸かっているという話をしましたら、ある方からこんな反論がありました、「何か他力ということを特別なことのように言われますが、他力なんて身の回りにごろごろ転がっているのではないですか」と。その方が上げられたのは、胃の消化活動、心臓の拍動などです。なるほど胃や心臓はぼくらが動かそうと思っていないのに、ぼくらのために働いてくれていますから、その意味では自力ではなく他力です。そしてそのようなものを探せば、確かにいくらでも転がっています。例えば太陽の光あるいは雨などの自然現象は頼みもしないのに、ぼくらに恵みを与えてくれていて、それなしには生きていけませんから、その意味では他力です。
 しかしそれらは浄土の教えで言う他力には当たりません。
 ぼくらが生きていく上で身体や自然の力に依存していると認識したとき、ぼくらの理性はそれをこう理解します、ぼくらは生きていくためにそれらの力を利用しているのだと。それは例えば身体の具合が悪くなったようなときにはっきり分かります。心臓の不整脈がひどくなり、ペースメーカーを装着しなければならなくなったとき、車の部品を整備するように、心臓の不具合を治してまた正常に働いてもらえるようにしますが、そんなときぼくらは心臓を自分のために使っていると意識しています。それは自然の力についても同様で、自分が「生きんかな」として、さまざまな自然の力を利用しているのであって、つまるところ他力ではなく自力です。
 日常のことばとしての自力・他力と浄土の教えでいう自力・他力との間にはかなりの落差があって、それがことを複雑にさせています。日常語としての自力は「自分の力ですること」、他力は「他の人の力を借りること」を意味しますが、それは浄土の教えでいいますと、どちらも自力です。浄土の教えでいう自力とは「自ら生きんかなとすること」であり、他力は「他を生かしめんとすること」です。これを仏教本来のことばにおきかえれば、自力とは自利であり、他力とは利他です(そもそも自力・他力ということばは三部経のどこにもなく、曇鸞が使うようになったのです)。


タグ:親鸞を読む
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