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世のなか安穏なれ [はじめての『尊号真像銘文』(その36)]

(13)世のなか安穏なれ

 仏教が己の内なる煩悩(我執)に眼を向けるのはその通りです。あらゆる苦しみのもとが己の内なる煩悩であることを見つめよと説きます。そして内なる煩悩に気づくことが取りも直さずそのマインド・コントロールから解き放たれることです。浄土の教えでは、それが弥陀の本願に遇うことであり、ひとこえ南無阿弥陀仏を称えることです。でもそれでおしまいではありません。それからほんとうの人生(正定聚不退の人生)がはじまるのだと繰り返し述べてきました。「昇道無窮極(道に昇るに窮極なし)」とはそのことです。
 ではその道とはどのようなものか。
 親鸞は手紙の中でこう言っています、「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえさふらふ」(『親鸞聖人御消息集』)と。「世のなか安穏なれ」と願い念仏するとき眼は外に向いています。そしてそのように願うということは、世のなかに安穏ならざる事態があるということですから、おのずとそれに対して立ち向かっていくことになります。安穏ならしめないものに怒りを向け、それと闘うことにならざるをえません。
 障害者に対して「本来あってはならない存在」という差別の眼差しが向けられることに怒り、それと対峙することが「世のなか安穏なれ」と願うことです。その怒りが我執の怒りとは異なるものであることは先に述べた通りです。もう一度確認しておきますと、己の中にも差別の眼差しが歴然とあることを自覚した上で、外なる差別の眼差しに怒りを向けるということです。したがって、外なる差別との闘いは、内なる差別との闘いでもあるということ、ここにこの怒りの正当性があります。
 この本の中に「大きな主語」と「小さい主語」ということばが出てきて印象に残りました。大きい主語とは「人間」、「世界」あるいは「歴史」などで、小さい主語とは「ぼく」という一人称単数です。ぼくらは外なる差別と闘うとき、ともすると「人間は平等に生きる権利がある」などと大きな主語で語りますが、そのとき自分のことは棚上げにされています。仏教は外なる悪と闘うときも、小さな主語で語れ、内なる悪を忘れるなと説きます。

タグ:親鸞を読む
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