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第17願と第18願 [はじめての『尊号真像銘文』(その143)]

(3)第17願と第18願

 この問題を解き明かしてくれるのが初期の『無量寿経』です。『無量寿経』にはいくつかのバージョンがあり、それを大きく二種類に分けることができます。ひとつは早い時期に成立した『無量寿経』で、その最大の特徴は本願が24願しかないということです(これには呉訳『大阿弥陀経』と漢訳『平等覚経』があります)。もうひとつが後に成立した『無量寿経』で本願が48願あります(これには魏訳『大無量寿経』と唐訳『如来会』があります)。親鸞は魏訳の『大無量寿経』(以下、『大経』と略称します)を使っていますが、必要に応じてそれ以外の『無量寿経』からも引用しています。
 さて初期の24願経では『大経』の第17願と第18願がどのようになっているのかに注目しましょう。『大阿弥陀経』でみますと、この二願はひとつの願になっていて、こう書かれています、「それがし作仏せしめんとき(仏となるとき)、わが名字をして、みな八方上下無央数(限りない数)の仏国にきこえしめん。みな諸仏をして、おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳国土の善をとかしめん。諸天人民ケン飛蠕動(空を飛び、地をうごめく虫たち)のたぐひ、わが名字をききて慈心(喜び敬う心)せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわがくにに来生せしめ、この願をえて、いまし作仏せん。この願をえずばつゐに作仏せじ」(第4願)と。
 前半(「わが功徳国土の善をとかしめん」まで)が第17願に当たり、後半が第18願に当たりますが、それがひとつながりに一体となっています。まず諸仏にわが名号(名字)を世界に説き広めさせ、そして、それを聞いた衆生が歓喜踊躍して往生を願うようにさせようということです。まず「諸仏の称名」があり、それが「衆生の聞名」となる。そしてそれがさらに「衆生の称名」につながるわけです。かくして名号は諸仏から衆生に届けられ、衆生がそれを受けてまた他の衆生に伝えていくという構図になります。名号はこのように次々とリレーされていき、世界の隅々まで広がっていく。

タグ:親鸞を読む
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