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争わず [はじめての『尊号真像銘文』(その150)]

(10)争わず

 救いの真理について語るというのは、その真理にゲットされ救われたという名状しがたい経験を語るということでした。そしてその語りにはさまざまなものがあります。その中には見当違いのものもあることでしょう。どういうわけか、真理にゲットされていないのに、あたかもゲットされたかのように語るということもあり得ます。そのような場合、真理にゲットされた経験のある人は、その語りが見当違いのものであると判断することができるでしょう(その反対に、自分の語りとはまったく違うものであっても、それが本物であれば、本物だとすぐ見抜けるはずです)。で、もしこれは偽物だと思ったときに、どうするでしょう。その人と争うべきでしょうか。
 その語りが人を害するものであるような場合(いわゆるカルト宗教のような場合)、黙っていることはできないかもしれませんが、そうではない限り争うことはありません。それが偽物であれば、いずれ偽物であることが明らかになるでしょうから、とやかく言う必要はありません。問題は逆に他からとやかく言われたときのことです、「汝の語りは偽物である」と。こちらに争う気はないのに、むこうから争いがふっかけられるのは困ったものですが、そんなときも決して相手の誘いに乗ることなく争いを回避すべきです。唯円が『歎異抄』で言っていましたように、「あなたにとって偽物かもしれませんが、わたしはこれで救われているのですから悪しからず」と挨拶してその場を収めるのが賢明です。
 それでもなお力ずくでおさえつけようとされたらどうするか。実際、法然や親鸞の念仏集団は何度となくそのような圧迫を受けたのですが、そんなときも「争わず」の姿勢を崩すことはありませんでした。親鸞は念仏を妨げられて困っている関東の弟子にこう書き送っています、「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便(ふびん)におもふて、念仏をもねんごろにまふして、さまたげをなさんを、たすけさせたまふべし」(『親鸞聖人御消息集』第9通)と。ここには、どんなに念仏を妨げようとしても、できるはずがないという不動の信があります。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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