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自力と他力 [親鸞の手紙を読む(その107)]

(5)自力と他力

 「そのところの縁つきた」から「いづれのところにてもうつらん」とはからうのと、「余のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからふ」のを対比してきました。前者が縁にしたがう他力のスタンスで、後者は縁をみずからコントロールしようとする自力のスタンスとして。しかし、いずれにしても直面している困難にどう対処するかという点では何も変わらないのではないでしょうか。一方は場所を移るという消極的な対処であり、他方はその場に踏みとどまるという積極的な対処という違いはあっても、どちらも「はからい」であることでは同じです。
 何を「する」にせよ、「する」ことはみな自力であるということ、これをあらためて確認しておきましょう。無意識でない限り、「わたし」がこうしようとはからってそうしているのですから、例外なくみな自力です。他の力を借りて何かをするとしても、他の力を借りるのは自力です。では他力とは何でしょう。「わたし」がこうしようとはからって、そうしているに違いないのですが、と同時に、それに先立ってそのようにはからわれていることに気づく、これが他力です。自力と他力は矛盾しません。すべて自力であり、と同時にみな他力なのです。
 さてしかし、どんなこともみな自力であるというのは常識的ですから、すんなり受け入れられたとしても、それに先立ってそのようにはからわれているということには強い抵抗が働きます。そんなことを認めたら、自力が自力でなくなってしまうではないかという危惧の念がおこるからです。すべてが前もってはからわれているなら、われらは操り人形のようなもので、人間としていちばん大切な自由がどこかにいってしまうと。他力は自力(自由と言っても同じです)と相いれないと思われるのです。
 ここには煩悩即菩提と同じ困難があります。もし煩悩も菩提もどこかに客観的に存在する何かであるとしますと、煩悩であると同時に菩提であるというのは明らかに矛盾します。これは犬であり、と同時に猫であるというようなものですから。しかし、煩悩も菩提も気づきにおいてはじめて姿をあらわす存在であるとしますと、話はまったく違ってきます。煩悩の気づきは、そのままで菩提の気づきであるのです。両者は矛盾するどころか、二つにしてひとつです。

タグ:親鸞を読む
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